ポケットストーブ

ショートショート作品
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 あれはまだ私が大学生の頃。
 同じゼミの高田くんのダウンジャケットが温かそうだなと思って、私は思わずそのポケットに手を突っ込んだ。
「わ、何すんの石井さん!」
 高田くんはそう言ってびっくりしていたけど、私もびっくりした。
「うそ、本当にあったかい」
 高田くんのポケットの中はじんわりと温かくて、冷え性の私の手は優しい温もりに包まれた。
「……ポケットストーブ知らないの?」
「え?」
「これ、ポケットがストーブになっているんだよ。だからいつもあったかいの」
 高田くんはそう言って笑った。
 それから、私はキャンパスで高田くんを見つけるとそっと近づいて後ろからそのジャケットのポケットに手を突っ込んだ。
「うわ! また石井さんかぁ」
 そう言って笑う高田くんのポケットはいつも温かかった。
 キャンパスで会った時、授業中、偶然一緒になった帰りの電車の中、デートをした映画館の中。
 どこでも高田くんのポケットは温かかった。
「石井さんはポケットストーブが好きだね」
「冷え性だもん」
「いつでもどうぞ」
 高田くんはそう言っていつもジャケットのポケットを貸してくれた。
 あの日、初めて高田くんのポケットに手を入れて以来、高田くんが私に会う時(もしくは会いそうな時)には事前にポケットをホッカイロで温めていることを知ったのは、付き合ってからかなり経った頃だった。初めての日は、多分本当にホッカイロが入っていたのだろう。
 高田くんはその事を私に言わない。私も聞かない。彼の優しさが嬉しくて、好きだった。
 でも、いつからだろう。
 彼のポケットに手を入れるのが怖くなったのは。
 付き合って何年も経った時?
 結婚して一緒にいるのが当たり前になった時?
 子供が生まれて大きくなって、お互い横に並んで歩く機会がなくなった時?
 私は今、夫のダウンジャケットを見つめている。
 子供たちが家を出てそれぞれ新しい生活を始めてから、私たちはちょっとぎこちない。
 彼のポケットはまだ温かいのだろうか。
 確かめてみたいなと思うけれど、ちょっと怖い気もする。
 ただ夫と二人で並んで歩いているだけなのに、私はなんだか緊張する。
 目の前にいるこの人はもう高田くんじゃなくて、私も石井さんじゃない。
 だけどそのポケットはまだ温かいのだろうか?
 私は、夫が信号に気を取られている隙にそのジャケットのポケットに手を突っ込んだ、
「あ」
 寒空に冷えて氷のようになった私の手が、ポケットの中で溶ける。
「何、寒いの?」
「……うん」
「じゃ、はい」
 ポケットの中に夫の手も入ってきて、私の手を握る。
「冷たい!」
「へへへ」
そう言って笑う夫の顔が、ちょっとだけ、高田くんに戻っていた。

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