ss【河童が出るという噂】

 男の働く会社のトイレに、河童が出るという噂が広がっていた。

 河童である。昔から妖怪の類いとしては有名な部類に入るであろうあの河童だ。
 頭頂部に皿があるというあの河童だ。
 実に馬鹿げた噂だが、会社といういい大人達が集まった場所で荒唐無稽な噂が広がるとも思えない。怪談好きな子供が集まる小学校とは訳が違うのだ。
 

 とはいえ男は勿論、噂を信じてなどいなかった。

 ある日男は遅くまで残業していて、ついには会社にいるのは男と守衛の者だけになっていた。
 そんな時、例の噂を思い出し真偽を確かめてやろうと河童がでるというトイレに向かった。

 噂のトイレは、会議室がいくつかある最上階の、一番奥にある。
 エレベーターの近くにもう1つトイレがあり、そちらの方が綺麗な為、通常は皆そちらを使う。
 

 ましてや、こんな夜遅くにこのトイレを使う者はほとんどいないだろう。
 男の歩くコツコツという音だけが最上階にこだまする。

 トイレのドアを押すと、錆びたドアの開く音が誰もいない最上階に響いた。
 男はまず電灯のスイッチを押したが、電灯は灯らなかった。
 電灯のつかないトイレはさすがに多少気味が悪い。戻るか……。
 小窓から月の光が差し込んでいて、トイレ内はなんとか見渡せる程に明るかった。
 男は意を決して奥へと向かった。
 ドアは開けた時と同じ音をたてて、閉じた。

 トイレには小便器が3つ、個室が2つある。
 一番入り口近くの小便器の前に男が立つと、自動的に水が流れ、小便器を洗浄した。

 と、隣の小便器も水が流れ、更に隣の小便器も水を流し始めた。
 男は3つの小便器が水を流し終わるまでその様子を見守った。
 通常、こういった小便器は人が前に立たないと水は流れないはずである。すると、やはりここにはなにかがいるのだろうか……。

 男は試しにもう一度小便器の前に立ってみる。
 結果は同じだった。
 1つの小便器が水を流し始めると他の2つも反応して水が流れる。

 しかしただそれだけだった。

 故障なのか元々そういう仕様なのか分からないが、こんなものが河童の仕業である訳はない。
 男がそう納得しかけた時だった。

 トイレの奥、掃除用具の入っているはずの区画から、ぴちゃり、ぴちゃりと水のたれる音が聞こえてきた。
 なぜ、あんな所から水の垂れる音がするのだろう。

 男は掃除用具入れのドアに手をかけた。しかしドアの立て付けが悪く中々開かない。
 そうしている間に水の垂れる音は次第に強くなっていくように男には感じられた。
 男が思いきり力を込めて引くとドアは勢い良く開いた。
 そこにはバケツやモップといった掃除用具と大きな洗面台のような物があり、その蛇口から水が垂れて音をたてていた。
 恐らく清掃員の蛇口の締め方が緩かったのだろう。
 男は蛇口を閉めて水を止めた。

 電灯の点かない室内、勝手に水が流れる小便器、水の垂れる音のする掃除用具入れ。
 これくらいの材料が揃えばまぁ怪談の一つもできようか。
 男は周りを見渡したが他に怪しむべき物はなかった。

 結局、河童などはどこにもいなかったのだ。
 記念にひとつ、大便でもして帰ろう。
 そう思った男は念の為大便器の蓋を開け、なにもいないのを確認してから腰掛けて個室のドアを閉めた。

 と、男の目にドアに書かれた異様なメッセージが飛び込んできた。

『快便の為にはキュウリを』

 大方噂を面白がった人間の落書きだろう。男は気にせず腹に力を込めて大便をした。
 ぼしゃりと大便が水に落ちる音がした。
 次の瞬間、男は驚きのあまり硬直した。

 なにかヌメヌメしたものが、撫でるように男の尻に触れている。

 それは通常世界の物であるはずが無かった。
 男は飛び上がるように大便器から立ち上がり、逃げようとしたが、脱いだズボンに足を取られ、勢い良く個室を突き抜け向かいにあった小便器に頭から突っ込んだ。
小便器は水を流し、男の頭を濡らした。連動して他の小便器も水を流し始める。
 蛇口がひとりでに回り、掃除用具入れの洗面台から大量の水が流れ出した。

 手洗い用洗面台の蛇口からも水道管が破裂せんばかりの勢いで水が噴出し、それに合わせて蛇口が痙攣するように激しく上下していた。
 トイレ内は水の噴き出す轟音に包まれた。
 男が大便器を振り返るとそれはゆっくりと姿を現した。

 その姿は人間によく似ていた。
 人間の髪に苔がびっしりとまとわりついたような緑色の頭。
 前髪部分が顔を覆い隠している。
 緑色の手が大便器からヌっと伸びて床にべしゃりと手をついた。大便器の奥からはゴボゴボゴボと排水口に水が流れ込むような音が聞こえてくる。
 上半身だけを現した化け物はむせるようにして、風呂場で固まりになった髪の毛のような苔を吐き出してから、言った。

「……ぎゅう…り…よ…ごぜ…」

 男は恐ろしさのあまり身じろきもできずに化け物を凝視していた。

「……ぎゅう、り…よ…こせ」

 化け物が両手を床につきゲギャギャギャと奇怪な叫び声を上げた。
 男はそれを合図に我に返り、腰の抜けてしまった体を引きずり、バシャバシャと水に濡れた床を這いずって逃げた。
 外へのドアをあけると水が一緒に流れ出し男の行く先を波状に濡らした。
 しばらくして振り返るとトイレは元の静かな様子に戻っていた。
 それからようやく男は、自分がズボンをトイレに忘れてきた事に気がついた。

 それから男はトイレで用をたすこと、取り分け大便をする事が困難になった。
 用をたしている時には確かめようのない便器の底からいつまた何が這い出てくるか分からない。
 ついにはストレス性の腸炎を発症し、通勤電車の車内で大便を漏らし、その体験から電車に乗れなくなった。

 ある日男は大人用のおむつを履いてなんとか会社の最寄り駅までたどり着くと会社の近所にある八百屋へ向かった。

『キュウリ一袋98円』

そう書かれたPOPには河童の絵が描かれていて、男は一瞬びくりと身を震わせてからキュウリを一袋掴んだ。

 男は会社に着くとキュウリを持って最上階に上がった。
 最上階は早朝でも薄暗かった。
 男は意を決してトイレのドアを開け、大便器へ向かった。
 そしてキュウリを一本持ちながら震える手で、蓋を開けた。
 そこには何もいなかった。
 男はキュウリを全て大便器に放り込むと逃げる様に立ち去った。

 それから、男の前に河童が現れる事は二度となかった。

■ エピローグ

 男は思った。
 妖怪や化け物、幽霊といった存在を私は全く信じてこなかった。
 そういったものを盲目的に信じないという事は、そういったものを盲目的に信じるという事と何も変わりはないのだ。
 あの時私の身に起こった事が妄想だと言われても立証する手だてはなにもない。
 ただ、見たという真実の記憶が私の中に確かにあるだけだった。

 八百屋は思った。
 人間は面白い。思い込みでどんな事でも現実にしてしまう。

「河童が出る」

そんな荒唐無稽な噂を自らの意志で現実のものへと変えてしまう。
 噂が現実となってこの世に形取られる。
 あの噂を流したのが私だとも知らずに。

 幽霊は思った。
 またキュウリだ! 俺が脅した人間はなぜキュウリを持ってくるのだ!?
 俺は「給料をよこせ」と言っているのに。
 幽霊は喉に絡み付く苔にむせながら、仕方なくキュウリを一本ポリポリと齧り、便器の底へと消えていった。

スポンサーリンク

コメントしてくださるんですか? ヒョエエー!

メールアドレスが公開されることはありません。