「おい、おまえ!止めろ!」
また、今日も始まったか。
「頼む、止めてくれ!」
背後にある車両で男が叫び回り、私のいる乗務員室の窓が狂ったように叩かれた。
騒ぐ客は、このトンネルを通る時にだけ現れる。
毎日ではなく、数日おきにだ。
この男のような客に騒ぐ理由を問うと、必ず皆同じことを言う。
「暗い」と。
電車はトンネルを通っているのだから、暗いのは当然なのだ。
訳が分からない。
トンネルを抜け駅のホームに着くと、叫んでいた男はベテラン駅員である柳さんに連れられていった。
柳さんはかつて運転手も務めていたそうだが、今はトンネルを抜けた先のこの駅で働いている。
こちらを振り返った柳さんに、いつもすみません、と目線で伝えると柳さんは深々とお辞儀をして駅員室へと歩いていった。
柳さんはいつも私に向かって深々とお辞儀をする。直接言葉を交わしたことはないが、きっと礼儀の正しい、物静かな人物なのだろう。
先ほどのような客には、私も柳さんも慣れっこだった。
終着駅につき駅員室に入ると、新人の時私の指導員をしてくれた先輩、宮本さんがいた。
宮本さんは今、別の区画に勤務しているが落とし物の受け渡し等でたまにこの駅を訪れる。
宮本さんはなにやら机で書類を書いていた。
「宮本さん、お疲れさまです」
私が声をかけると宮本さんは
「あぁ、おまえか」
と書類から目線を上げた。
帽子を脱ぎ、上着をロッカーにかけていると宮本さんが話しかけてきた。
「おまえ、まだこの区間走ってるのか」
「はい。宮本さんも、前にこの区間を受け持っていらしたんですよね」
「あぁ」
そうだ。宮本さんならあの妙な客達の事を何か知っているかもしれない。
ロッカーの鍵を閉め、宮本さんの側の椅子に腰掛ける。
「宮本さんは、おかしな客に逢ったことがありますか」
「おかしな客?」
宮本さんはペンを置いてこちらを向き、居心地が悪そうに椅子に座り直した。
「トンネルに入ると突然、暗いって叫ぶ客です。今日もいました」
「……あぁ」
宮本さんは、どこか落ち着かない様子で視線を私から反らし、書類を揃え始める。
やはり、宮本さんはなにか知っている。
「……柳さん、元気か」
「はい、元気です。今日も面倒な客を誘導してくれましたよ」
「そうか」
書類を片付け終えると宮本さんは席を立ち、椅子にかけていた上着を羽織った。
そして少し考え込むような顔をしてからこんな事を言い残し、駅員室を出て行ってしまった。
「柳さんがお辞儀するだろう。あの時だけは、余計な事をするな。柳さんだけを見てろ」
***
ベルが鳴り、私は電車を発進させた。今日もこれから例のトンネルを通る。
私の受け持っているこの区画は異動が多いことで有名だ。
受け持った担当が強く異動を願い出るので、仕方なく担当を変える。半年もてばいい方だった。
私は異動してまだ三ヶ月だったが、あの妙な客達以外は特に変わった事のない、楽な区画である。
やはり、異動の原因はあの客達なのだろうか。
トンネルに入り、ライトが前方の線路を照らし始めた時だった。
「イヤ! なにあれ!」
今日は女か。二日連続でおかしな客が現れるとは……。さすがに気が滅入る。
「気づかないの? あなたたち!」
女は他の客に対してわめき散らしているようだ。
車両中がざわつき始める気配がする。
女が
「ちょっとあんた!止めなさい!」
と言って乗務員室の窓を爪で引っ掻き始めた。
耳をふさぎたくなるような音を必死に耐えていると、ようやく駅についた。
電車が完全に停止してからホーム側にある小窓を開けると、柳さんがこちらに向かってきているのが見えた。
柳さんの姿を見てほっとした私は、安全確認をしようと後方車両へ視線を向けた。
すると、先ほどの女が車両から飛び出てきて、私に掴みかかった。
もの凄い力で首が締め付けられる。女の鋭い爪がキリキリと皮膚を破いた。
女は、口の端から泡を吹き出し、喚いた。
「この電車、おかしいわ! 前もこういう事があったでしょ!? 男の人が騒いでたわ。その時は私も分からなかったけど、絶対おかしいわよ! あれって、もしかして……」
なにか言おうとした女の腕を背後から現れた柳さんが掴んだ。女は訳の分からない奇声を発しながら柳さんの腕から逃れようと必死にもがく。
女を連れ離れていく柳さんに、私は思わず叫んでいた。
「柳さん、なんなんですか、この人たちは!?」
安全確認を終えたホームの駅員が発車ベルを鳴らしている。
ベルが鳴り響く中、暴れる女に引っ張られながらも柳さんは私に深々とお辞儀した。そして、駅員室へと消えていった。
首筋に冷たいものを感じて手で拭うと、真っ赤な血がべっとりとついている。
女の爪が破いた皮膚から出た血が、シャツまで染みていく感触があった。
***
終着駅についてすぐに、柳さんのいる駅へ内線をかける。
長いコール音が聞こえ誰も出ないと諦めかけた時、誰かが電話に出た。
「すみません、柳さんはいらっしゃいますか」
「私だが」
どうやら今話しているのが柳さんらしい。
柳さんの声を聞いて、私はどこか違和感を感じた。
初めて話すからなのかもしれないが、いつも見ている礼儀正しそうな柳さんと今話している電話の主のイメージが一致しない。
私が名乗ると、柳さんは「やぁ、君か」とすぐに私の事を思い立ったようだ。
言葉こそ交わした事はなかったが、数日置きにあのような特殊なやり取りをしていたら当然かもしれない。
「柳さん、あの人たちはなんなんですか」
「今日の女の人?」
「そうです」
柳さんは電話の向こうで、しばし考え込むように沈黙した。
「彼女たちは、怖がっているんだよ」
「は?」
「突然窓の外が真っ暗になるから、怯えているんだ」
「……真っ暗って、当たり前でしょう。トンネル内なんだから」
「トンネルの中は、本当に真っ暗かい」
私のいる乗務員室から見えるトンネルの中は、暗闇ではない。電車のライトが線路の先を照らしているし、トンネルの側面には蛍光灯が等間隔で設置されている。
そこまで考えてから、柳さんの言おうとしている意味に気づいた。蛍光灯の明かりは、窓から乗客にも見えるはずである。
「本当の暗闇ではない、という事ですか」
「そうだ」
「ならば、どうしてあの人たちは……」
「君、今からこっちに来れるか」
柳さんは一体何を知っているのだろう。
「今日はこれで上がりなので、大丈夫ですが」
「直接話そう。駅員室に来なさい」
「分かりました、すぐに行きます」
「あぁ、その前に、一つ頼まれてくれるか」
「なんですか」
返事を待っていると、柳さんは妙な頼みごとをしてから、電話を切った。
***
運転席に忘れ物をしたと適当な嘘をついて、回送車両置き場へのゲートをくぐる。
月のない夜の暗闇を、宮本さんの言葉を思い出しながら歩いた。
【柳さんがお辞儀をしている時は、余計な事をするな】
あれは、どういう意味だったのだろう。
懐中電灯を取り出し、柳さんに頼まれたものを探す。
【君が今日運転していた車両に、まだ黒い模様はあるかな】
柳さんの言っていた黒い模様はすぐに見つかった。
先頭車両の車輪近く、駅ではホームとレールの間に隠れる部分に、黒い模様がついている。
模様は1メートル程に渡って横に伸びていた。
手を触れてみると、模様の部分だけ妙な凹凸がある。
ざらざらとした、細い針金が幾重にも折り重なっているような、妙な感触だった。
***
柳さんがいる駅の駅員室は、ホームから階段で上がった先の改札階にある。
時刻は午後十一時近く。改札を通る乗客はほとんどいない。
駅員室に入ると、柳さんは打ち合わせスペースに座って私を待っていた。
打ち合わせスペースといっても、二つのソファが背の低い机を挟んで向かい合っているだけの簡単なものだ。
柳さん以外の駅員は皆出払っているようで、駅員室は静まり返っている。
蛍光灯が発する微かな音が聞こえた。
「なにか飲むかい」
そういって柳さんは奥にある簡易キッチンへ向かった。
先ほどの電話で感じた違和感が、より一層強くなる。
これまで想像していた、礼儀正しく物静かな柳さんの人物像と、目の前にいる実際の柳さんはどこか食い違っていた。
ソファに腰をおろすと、柳さんがマグカップを二つ持って戻ってきた。カップにはコーヒーが入っている。
「なにかといっても、コーヒーしかないんだ、ここは」
「ありがとうございます」
柳さんは自分のカップから少しコーヒーをすすると、
「さて、どこから話そうかな」
と言ってソファの背もたれにもたれかかった。柳さんの体がソファに沈み込む、重苦しい音が室内に響いた。
「君は、今の区画に異動してからどれくらい?」
「三ヶ月ほどです」
「三ヶ月か。もしかしたら、聞かない方がよかったかもと後悔する事になるかもしれないけど」
「構いません。あの人たちは、なんなんですか」
柳さんはゆっくりと一度天井を見上げ、小さなため息をしてからこちらに向き直った。
「あの人たちの言っている事は全て本当だよ」
「暗いって、事ですか」
「そうだ」
柳さんはこれから何を言おうとしているのか。ふいに、この先は柳さんの言う通り聞かない方がいいのかもしれない、という言い知れぬ不安が私を包んだ。
「君は、人を轢いたことがあるかい」
突然の質問に私は戸惑った。話が見えてこない。
同僚からは、いわゆる人身事故に遭遇したという話を度々耳にする。
だが、私が担当してきた区画は比較的事故の少ない区画で、幸いまだそういった事故にあったことはなかった。
「私はありません」
「俺は轢いたんだ。あのトンネル内で」
駅員室の床が微かに震えた。ホームへ電車が入ってきたのだろう。
「あのトンネルというと……」
「客が騒ぎ出す、この駅へ来る途中のトンネルだ。もう、随分前になる。若い女性だった」
柳さんは一瞬顔を歪めると、それを隠すように両手で顔を覆った。
そして、洗面所で顔を洗うときのような仕草で顔全体を擦ってから、こちらに向き直る。先ほどの表情は、消えていた。
「まぁ、自殺だよ。それなのに恨まれちゃ、かなわないよな」
「恨まれる、とは」
「まだあっただろう、黒い模様」
床が震え、電車が駅を離れていった。再び蛍光灯の発する微かな音が聞こえ始める。
それを合図に、全身の感覚が極度に緊張した時のように過敏になった。この先は、聞かない方がいい。
「あの模様、トンネルの壁にもついてるんだ。今もね」
「それは、つまり、その若い女性の……」
「轢いたときについた汚れだよ」
停車信号がない為、あのトンネルを通過する際は車両のスピードを落とさない。あのスピードで跳ねたのだとしたら、女性の体は元の形で残らなかっただろう。
「人を跳ねてもさ、感覚ないんだよ、普通。ましてやあのスピードならね」
同僚も似たような事を言っていたのを思い出す。かなり大きな音が響くが、なにかにぶつかった感触はあまりないらしい。
「でもその女性を轢いた時は、はっきりとした感覚があった。人影に気づいてブレーキをかけた後電車がスピードを落とす時、なにかを擦っているようなゴリゴリという感触を車体から感じた。後に聞いた話では、どうやら吹き飛んだ女性の頭部が、車体とトンネルの壁の間に挟まってしまっていたらしい」
人間の頭が車両の激しい圧力で千切れ、トンネルの壁を跳ね返り、車体と壁の間に落下する。そしてそれは前進を続ける車両の強烈な力で、圧迫され、血が吹き出て、削れ、縮んでいく。
思わず想像してしまった映像を、必死でかき消す。
コーヒーに手を伸ばしかけたが、カップの中の黒い液体が波み打ち始めたのを見て、手を止めた。
今度は反対車線に電車が入ってきたのだろう。先ほどより大きく揺れた床からソファを通して振動が伝わり、私は今すぐこの席を立ちたい衝動にかられた。
「その時についたあの黒い模様が、今も消えないんだよ」
模様をなでた時の、針金のような感覚。手のひらにこびりついたその感覚を何度も膝で拭った。
「清掃を、したんでしょう。事故現場でも、回送後も」
「したよ。でも消えないんだ。今じゃ気味悪がって誰も掃除しないよ。俺も二度と見たくはないね。だけどまだあの汚れがあるのか、気になっていたんだ」
「暗い、とはどういう事ですか。あの客達はなにを見ているのですか」
「あの模様、あのトンネルを通るときだけ車両全体に広がるんだ。それで、窓一面が真っ暗になる」
黒い模様が広がる。何事も無い日常では笑い飛ばしてしまいそうなそんなイメージが、目の前に現れた。手のひらの感覚が、全身に広がる。
「黒い模様、女性の血の跡が、窓一面を覆い隠すという事ですか」
「……血? いや、あれは血じゃない。髪の毛だよ。女性の髪の毛が貼り付いているんだ」
床が再び大きく揺れ始める。
柳さんはゆっくりと立ち上がり、備え付けのロッカーから書類を一枚取り出し、それをボールペンと共に私の前に置いた。
紙には「異動願い」と書いてある。
「三ヶ月勤めれば、異動願いを提出できる。今の話は人事も知っているから、差し戻されはしないはずだ」
そう言うと柳さんはすっかり冷めてしまったコーヒーの入った二つのカップを、流しへと運んでいった。
錯乱した客の形相。窓一面を覆い隠す黒い髪。それが、強風に煽られた雑草のようにざわざわと蠢く。
ソファへ戻ってきた柳さんは、いつもするように私に深々と頭を下げた。
「すまない。やはり、話すべきではなかったのかもしれない。しかし、話さない訳にもいかなかった」
先ほどから柳さんに感じていた違和感の正体が今分かった。柳さんは取り立てて礼儀の正しい、物静かな人物ではない。
「柳さん、最後に教えていただけますか。なぜ、柳さんはいつも私に向かってお辞儀をするんですか」
柳さんは迷うように少し黙ってから、答えた。
「……君にしているんじゃない。私がそうすると気が済むのか、頭を下げてから顔を上げると、あの女性が運転席から消えるんだ」
ボールペンを手に取り、自分の名前を書き始めようとした。
しかし、紙とペンが揺れてうまく書くことができない。それが電車の振動なのか、自らの震えなのか、分からなかった。