ss【空飛ぶ男と透明人間】

 とある病院の一室。隣り合ったベッドで、二人の年老いた男が天井を見つめながら楽しそうに話している。

「お金を盗むというのはね、案外できないものなんですよ」

「そんなものですか」

「はい。なにしろ私の姿は見えないけども、お金は消えない訳で、お金だけがフワフワ飛んでいく事になる。これは、大変目立ちますから」

「なるほど」

「覗きはやりましたねぇ」

「それはやはり、憧れますな」

「そりゃあ最初は楽しかったですが、でも、それがなんだったのだろうとこの歳になって思います。むしろ、女性の裸をイヤという程見ましたから、想像する楽しみが減ってしまったような気がします」

「それは、でも、やはり、羨ましい」

「空を飛ぶ時に一番気をつけることは何か分かりますか」

「はて、なんでしょう」

「飛行機と同じで、離着陸です。離陸するときも、着陸する時も、誰かに見られないように気をつけないとならない。見つかってしまったら大変な事になりますから」

「あぁ、それは通ずる物があります。透明になるというのも、実は自由が利かないのですよ」

「と、いいますと」

「まず服を着ていると透明にはなれませんのでね。服だけ宙に浮くことになりますから。冬は透明になっての外出はとてもできません」

「ははぁなるほど」

「あとは、透明になる場所ですね。自宅で透明になるとするでしょう。そうすると、はて、どうやって部屋を出たものかと悩むわけです。ドアから出るとすると、 一人でにドアが開いて、それから一人でにドアが閉まって、鍵だけが宙に浮いて移動するなんて事になるわけですから。それを誰かに見られたらどうしよう、と」

「透明になるというのも、なんだか気苦労が多いものですな」

「つくづくこの飛ぶ、という能力は役にたたないのですよ」

「そんな事はないでしょう」

「いやいや。そもそも、飛ぶとひどく息苦しいのです。高度が上がるほどに酸素が薄くなりますから。かといってあまり低く飛ぶと人の目がある。だから私はいつも人のいない夜に海の水面ぎりぎりを高速で飛んでいました。まぁ、気持ちはいいのですが、やはり高速ですから息苦しいのです」

「子供ができた時は不安でしたよ。もしもこの子も透けたらどうしようと思いましてね」

「そんなものですか」

「えぇ。でも、幸いに彼らは透けなかった。余計な寄り道をしないでまっすぐに生きてくれています」

 特異な人生を歩んできた二人の男は、初めて同じ境遇の仲間と出会い、こうして今まで誰にも話せなかった事を心行くまで語り合った。

 時にそれは身の回りの世話をする職員の耳に入る事もあったが、年を取った男たちの戯言と、むげに事を荒立てられる事もなかった。

 悠久の時と思われた二人の時間は、ある日終わりを迎える。

「あなた、お部屋を変わるのよ」

 医者との長い面談を経てやってきた老女が、片方の男に声をかけた。
 男たちは来る時を迎え、狼狽えることも、喚くこともなかった。
 昔なじみの友のように二人は一度目配せを交わし、別れの挨拶を済ませた。
 そうして、二度と飛ぶことのない男は、妻に手をひかれながらしっかりと地面を歩き、部屋を出て行った。

***

 それからしばらく経って。

 粉雪の舞う静かな夜だった。

 男は生涯寄り依ってくれた妻の名を呼びたいと思ったが、叶わなかった。

 子供のない男にとって、ただ一人の家族。この世の中を生きてきた思い出すべてを共有した人。その人に、看取ってもらいたかった。

 しかし、もう声を出すことができない。必死に宙へと片手を伸ばす。しかしそれを握る者はない。男の目から一人でに涙が溢れてきた。

 その時妻は、花瓶の水を換えに病室を出ていた。

 妻が蛇口をひねろうとすると、誰かが肩をポンっと叩いた。驚いて振り返るが、そこには誰もいない。

 しかしその視線の先、閉めて出たはずの部屋のドアが開いていた。

「あなた?」

 花瓶をその場に置いて、妻は夫の元へ向かった。

 宙へ伸ばした男の左手に温もりが訪れた。かすれた目を開けると、妻が男の顔をのぞき込んでいた。妻は、微笑みながら泣いている。

 微かにその手を握り返す。長い時間を過ごした二人には、それで十分だった。

 男は薄れゆく意識の中、最後に伝えるべき言葉を探した。そして、唇の動きだけで

「ありがとう」

 と言うと、静かに逝った。

 それは、妻と、もう一方の手を握る生涯最後の友への感謝の言葉だった。

***

 それからまた幾ばくかの時が過ぎ、もう一人の男の周りに家族が集まっていた。病室のベッドの上、男は家族に労いの言葉をかけると、目を閉じた。

 最後の息を一息吐くと、男の魂はすぅっとその体から離れていった。家族たちは魂が抜けた体に向かって男の名を呼び続けている。男の魂がゆっくりと宙へと浮かびあがった。男の肉体をのぞき込んでいる家族一人ひとりの後ろ姿を見下ろしながら、男は思った。

 皆、一度はその後ろ姿を見ながら肩を叩き、驚かせたものだ。我が家にはいたずら好きな幽霊が住んでいる。家族全員が大人になっても覚えている不思議だった。いくら科学が進歩し、いつかその存在が完全に否定されても、家族は皆、幽霊の存在を信じるだろう。私が家族にしてやれたのはそんな些細なおとぎ話を心に残してあげる事ぐらいだ。

 病室の天井をすり抜けると、家族の姿が見えなくなった。心細さが男に訪れようとした頃、誰かが男の肩を叩いた。

 男が振り返ると、よく見知った顔をした幽霊がこんな事を言って、微笑んだ。

「ご案内しますよ。飛ぶのは不慣れでしょう」 

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