ss【蜃気楼ボール】

昔からあまり体が強くなかった私は、その日初めて入院することになった。

病院で初めて迎える夜はとても心細くて、私はなんだか泣きそうになりながら、中々寝付けずにいた。

すると、間仕切り用のカーテンが開いて、隣のベッドのお姉さんが顔を出した。

「眠れないの?」

お姉さんは優しく微笑みながら聞いた。

「うん」

「そっか。怖いよね。でも大丈夫だよ。何かあったら看護師さんがすぐきてくれるから。それにこの病室にはあなた一人じゃないんだし」

「うん……」

「そうだ。これ、あげる」

そう言ってお姉さんは透明なテニスボールくらいのガラス玉を差し出した。

「それはね、蜃気楼ボールっていうの。寂しくなったら、それを見るといいよ」
ガラス玉を覗き込むと、ぼんやりと綺麗な海が見えた。

「でもこれ、お姉さんのじゃないの?」

「私は明日退院するから。私もそれ、前にここに入院してた女の人からもらったの。その蜃気楼ボールはね、ずっと昔にここに入院していたおばあさんが作ったものなんだって。それから、ここの入院患者に代々受け継がれているの」

「ふぅん」

「その中の景色がね、はっきりと見えると退院できるって言われているの。私はねぇ、昨日見えたんだ。頑張って」

そう言うとお姉さんは「じゃあ、おやすみ」と言って自分のベッドに戻っていった。

私が手に持ったガラス玉を覗き込むと、今度はぼんやりと大きな森の蜃気楼が映っていた。

翌日、お姉さんは「バイバイ。元気でね」と言って退院していった。

私は漫画やゲームに飽きると、ガラス玉の中を覗いた。

ガラス玉には、どこかの外国みたいな街並みが映っている。

私はじーーっと目を凝らしてその景色をはっきり見ようとしたけれど、ダメだった。

景色はいつも蜃気楼のようにぼんやり浮かぶだけである。

「あれ?」

ガラス玉の中に不思議なものを見つけたのは、私が入院して一週間くらい経った頃だった。

深緑色の、人影のようなもの。

その人影はガラス玉の中の景色が変わっても、どこかにいた。

ある時は海に向かって立っているように見えて、ある時は森の中に座り込んでいた。

人影をしっかり見ようと私が目を凝らしても、やはりその人影も蜃気楼のようにぼやけてしまうのだった。

深緑色の人影が見えるようになってから、またいく日か過ぎて。

私は不思議な夢を見た。

夢の中で起きた私は、暗い水の中を漂っていた。

そしてその目の前には、大きなガラス玉が浮いている。

私はガラス玉に向かって手を伸ばした。

すると、ガラス玉の表面がとぷんと波打ち、私はガラス玉に吸い込まれていった。

気がつくと、私はどこか荒野のような場所に立っていた。

ここはどこだろう。

人の気配がしない。音もしない。風だけが静かに吹いている。

「あら。いらっしゃい」

突然、後ろから声をかけられた。

振り返ると、一人、おばあさんが立っていた。

深緑色のゆったりとしたワンピースを着たおばあさん。

「ここじゃちょっと寂しいわね。いらっしゃい」

おばあさんはそう言って私の手を握った。

おばあさんと一緒に歩き出すと、周りの景色が少しずつ変化していって、私は暖かい南の島に立っていた。

「ここはね、外国人の男の人が教えてくれたのよ」

おばあさんはそう言った。

その島は先ほどの寂しい海岸とは違って、暖かさが溢れていて、姿は見えないけれど動物の気配がして、穏やかな場所だった。

「こういうのもあるのよ」

おばあさんはまた私の手を引いて、今度はシンと静まり返った森に案内した。

どこかから鳥のさえずりが聞こえる。

私はこの景色をどこかで見た事があった。

そう、あのガラス玉の中に見た景色だ。

「ねぇ、おばあさん、ここって……」

「そうよ。いつもあなたが見ていたガラス玉の中。私はね、この中に住んでいるの」

「ここに……?」

「うん。私はね、ある病気で病院に入院したの。でもね、ほら、病院ってちょっと殺風景なところがあるじゃない? だからね、これを作ったのよ。この中で、いつでも綺麗な景色を見られるように」

「そうなんだ」

「うん。それにね、ここの景色はどんどん増えていくのよ。あなたのようにガラス玉を見てくれる人が、その瞳の中から私に景色を教えてくれるの」

おばあさんがそう言うと、突然見慣れた景色があたりに広がった。

そこは、私が通っている小学校だった。

「これはあなたが教えてくれた景色」

学校の校舎からは私と同じ子供の声が聞こえてきた。しかし姿は見えない。

「私、学校って大好きよ。子供の声って元気をもらえるもの」

そう言っておばあさんが笑った。

「ねぇ、おばあさん。私もここにいてあげようか。ここには景色はあるけど、人はいないんでしょ?」

「そうよ。でも大丈夫。あなたのようにたまにここに遊びに来てくれる人から」

「でも……」

「ふふふ。優しいのね。でも、あなたのお家はお外にあるんだから、帰らなくちゃダメよ」

おばあさんがそう言うと、私たちは最初の荒野に立っていた。

おばあさんに手を引かれて歩く。

すると、まだ道は続いているのに、その先が蜃気楼のように見えない場所にたどり着いた。

「今日は楽しかったわ。ありがとう。元気でね、お嬢ちゃん」

おばあさんが私の背中をそっと押す。

道の先がとぷんと波打って、私は景色の外に出た。

そこは、黒く温かい水の中だった。

目をさますと、私はベッドの上にいた。

あれから一週間。私の退院が決まった。

病院最後の夜、私はそっとベッドを抜け出して、向かいのベッドにいる女の子に声をかけた。

「眠れない?」

「うん……」

「じゃあ、これ、あげる」

私はガラス玉を女の子に手渡した。

翌日、迎えに来てくれたお母さんと一緒に病室を出る時、女の子に手を振った。女の子もこちらに手を振りかえす。

そして、その手の中、ガラス玉の中から深緑色の蜃気楼が私に手を振っていた。

(了)

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