ss【胎児シェルター】

今日までどうしても来られなかった店に、俺はやってきた。

店の名前は「Mommy’s tummy」。

直訳すると「ママのお腹の中」だそうだ。

そこはいわゆるリラクゼーションルームで、「シェルター」という球体のボックスに入って体を癒す。

シェルターの中は温かい液体で満ちていて、服を脱いでその液体の中に入るのだと店員は教えてくれた。

言う通りにしてシェルターに入ると、店員が「ではごゆっくり」と言って扉を閉めた。

シェルターの中は本当に真っ暗になった。

酸素を吸うためのチューブを口にくわえ、俺は液体の中に体を埋めた。

そこは光の差し込まない漆黒の世界で、体は温かい液体に包まれている。

それが妙に心地がいい。

まさに母親のお腹の中という感じだろうか。

微かに、ドクッドクッと心音のような音も聞こえてくる。

人間が誰しも経験したことがあり、しかし二度と味わうことのないであろう安心感に包まれた。

「あぁ……これはいい」

俺は日々の仕事や喧騒や問題なんかを一切忘れて、いつしか眠りについた。

と、目の前が赤く染まり、光が差し込んでくる。

「お客様。お時間です」

店員がシェルターの扉を開けたらしい。

もう二時間経ったのか。

シェルターに入る前に、起床時間を二時間に設定していた。

会社帰りに寄ったのでそろそろ帰らないといけない。

俺は気だるい体で服を着た。

それから俺は「Mommy’s tummy」をとても気に入り、週に少なくとも3回はMommy’s tummyに通った。

暗闇で温かい液体に包まれて心地よい心音を聴きながら眠るあの感覚。

究極の安らぎとも言えるあの時間は何ものにも変えがたかった。

しかし、終わりはいつも突然やってくる。

起床時間が来て光が差し込んでくると、俺はいつも涙を流したくなる気持ちになった。

店員いわく、本当に涙を流す人もいるらしい。

俺にはその気持ちが痛いほどわかった。

きっと、赤ん坊もこんな気持ちで生まれてくるに違いない。

Mommy’s tummyに通いつめるようになって数ヶ月。

俺はかつてないほど疲弊しきっていた。

仕事のトラブルが重なり、俺のストレスは頂点を極めていた。

「コースはいかがいたしますか?」

店員がコース選択のシートを手渡してくる。

一時間、二時間、四時間、八時間、十二時間、二十四時間、そして……。

「無制限、でよろしいですね」

はい、と俺は返事をする。

自分が出たいと思うまでシェルターに入っていられるコース。料金は後払い。

俺は、もう、自分の気のすむまであの世界に入っていようと思った。

もうこの世界の喧騒はこりごりだ。

ここに来ることは誰にも伝えていない。

家族にも、同僚にも、誰にも。

俺のことは誰も知らない。

「ごゆっくりどうぞ」

店員がシェルターの扉を閉める。

俺は酸素チューブをくわえて液体の中に身を沈めた。

温かい。

心地いい。

母親の心音が聞こえる。

俺は、深く、深く、この闇に落ちていった。

もう目覚めることはない。

闇の奥底へ……。

………

……

暗闇が裂け、光が漏れ出す。

誰だ。やめろ。

俺は目を開けた。

マスクをつけた医師と思われる人物がこちらを覗き込んでいた。

俺は、本当の胎児として生まれ変わりでもしたのだろうか。

「大丈夫ですか! 私が分かりますか!」

どうやらそうではないらしい。

俺がゆっくりと頷くと、医師はほっとしたような表情をして、「少しずつ、回復していきましょう」と言った。

俺が体を起こせるようになると、周りの人間が今の状況を教えてくれた。

「Mommy’s tummy」の使っていたあのシェルターの中に満たされていた液体。

あの液体には人体を退化させる作用があり、あの「Mommy’s tummy」はその液体に人体を長時間浸すことで人工的に胎児を作り出していたらしい。

そしてそれを、求める人々にしかるべき値段で販売をしたとのことだ。

つまり、先ほど俺は自分が本当に胎児になって生まれ変わりでもしたのかと思ったが、本当にそうなる可能性もあった、ということだ。

ところで、俺は一体何年寝ていたのか。医師から帰ってきた答えは驚くべきものだった。

五年。

五年の間に俺の体は二十年の時を遡り、十二歳の体になっていた。

人間の脳は十歳くらいでほぼ大きさが大人と同じくらいになるそうで、あと一年発見が遅かったら脳の記憶にも障害が出ていた可能性が高い、とのことだった。

Mommy’s tummyの使っていた液体は違法性が指摘されている状態だそうだが、人間が若返る方法があると分かればそれが合法的に普及するのも時間の問題という気がする。

いずれにせよ、不可抗力で若返った俺たちが罪に問われることはなく、俺は体力が回復すると病院を後にした。

身元の確認を再三されたけれど、その記憶だけ曖昧だと嘘をついてある。

治療費は自分でどうにか払うつもりで、とりあえずは病院に借金をしている状態だ。

これから、俺を探しているであろう家族の元に戻るのか。

それとも二十歳若返ったこの体でまったく新しい人生を歩み出すのか。

戸籍。

家族。

友人。

同僚。

昔のアルバム。

大人のままの脳が騒ぎ出すが、それらは全て小さな問題のように思われた。

この世界に俺を知る人間はいない。少なくとも、今は。

その身悶えるような自由が今、俺の手の中にあった。

病院の扉を出ると、外は光に包まれた世界だった。

母親の胎内のごとく安全な病院を後にして、俺は外に向かって歩き始めた。

(了)

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