ss【雲の望遠鏡】

それは、私がまだ小学校低学年の頃の夏の日でした。

夏休み中、毎日のように友達と遊んでいた私でしたが、その日だけはなぜか友達が誰も家におらず、私は家の近所にある公園のベンチでひとり、空などを眺めていました。

ぼんやりと空を眺めていた私がふと視線を下ろすと、公園の隅で三脚を立てて望遠鏡を覗き込んでいるお兄さんの姿が見えました。

お兄さんは空に望遠鏡を向けてしきりに何かを観察していました。

私はベンチを降りてお兄さんの元に向かい「何を見ているの?」と聞きました。

そんな私に、お兄さんは望遠鏡から顔を離して「雲だよ」と笑いかけてくれました。

「雲なんか見て面白いの?」

私がそう聞くと

「面白いよ。見てみるかい?」

とお兄さんが言いました。

私が頷くと、お兄さんは望遠鏡を載せていた三脚の脚を短くして、私でも覗けるようにしてくれました。

そして、お兄さんは望遠鏡を覗いて角度などを調整すると「覗いてごらん」と私に言いました。

そう言われた私は望遠鏡を覗き込み、「わぁ……!」と思わず声をあげました。

望遠鏡には青い空と、そこに浮かぶ白い雲、そしてその”中身”が映し出されていました。

白い雲の中に映し出される、どこかの外国の景色。

私は驚いて望遠鏡から目を離して肉眼で雲を見つめましたが、そこにはいつものようにただ白いだけの雲が浮かんでいました。

「雲の中にはね、色々な世界が浮かんでいるんだ。見ていて飽きないよ」

お兄さんがそう言いました。

「他の雲も見ていい!?」

私がそう尋ねると

「いいよ。ただし太陽を見ないように気をつけて」

とお兄さんは言いました。

私は望遠鏡を様々な角度に変えて空に浮かぶ雲を眺めました。

雲にはそれぞれ違う景色が映し出され、私は何時間も飽きずに望遠鏡を眺め続けました。

そんな私の横で、お兄さんは望遠鏡の代わりにイーゼルを広げて絵を描いていました。

それから私は友達と遊ぶことも忘れて毎日毎日お兄さんの望遠鏡を借りて雲を眺めていました。

雲の中には外国の景色が映ることが多かったように思いますが、今思い返すと中にはこの世界のどこにも存在しない架空の国の景色が広がっていることもありました。

そしてその景色の中には必ず人間の姿がありました。

その国の中、雲の中で暮らしている人々。

雲の住人たちを眺めていると、彼らの中に存在するであろう物語の空想が広がるのでした。

そんなある日のこと。

その日は夏に時々ある豪雨の日でした。

朝からものすごい勢いで雨が降り続き、時たま晴れ間が見えたと思ったらまた雨が降るなんていう荒れた日でした。

家の窓から外を見ると、空には真っ黒の雲が広がっていました。

私は「危ないからやめろ」と止める母親を無視して、あの公園に向かいました。

そういえば今まで雨雲を望遠鏡で見たことがなかったので、見てみたいと思ったのです。

こんな雨の日ですからさすがにお兄さんはいないかもしれない。いなかったら帰ろうと思いながら公園に向かうと、そこには望遠鏡にビニールをかけ、自身もレインコートに身を包んで望遠鏡を覗くお兄さんの姿がありました。

私は嬉しくなって、お兄さんに声をかけました。

「雨雲見せて!」

そう言った私にお兄さんは驚いた顔をして、すぐに帰るように言いました。

私は雨雲が見てみたかったのでぐずりましたが、お兄さんはとうとう最後まで望遠鏡で雨雲を見せてくれることはありませんでした。

今ではお兄さんの気持ちがわかるのですが、そこにはきっと子供があまり見ない方がいい景色が広がっていたのでしょう。

お兄さんに初めて冷たくされた私はとぼとぼと家に帰りました。

次の日から、お兄さんはまた普通に望遠鏡を見せてくれるようになりました。

夏休みが終わり、私はまた友達と遊ぶようになって、公園に行くことがなくなりました。

たまに友達と公園の前を通りかかることはありましたが、お兄さんの姿を見つけることはできませんでした。

お兄さんも夏休みが終わったのかな。

そんな風に考えていた時、私の家にダンボールの荷物が届きました。

それはお兄さんからでした。

いえ、正確にはお兄さんのお母さんからでした。

ダンボールの中にはあの望遠鏡が、部品ごとに解体されて入っていました。

私はお兄さんに住所を教えたのでしょうか。

一度くらいは家まで送ってもらったような気がするし、自分の名前も教えていましたが、当時私はお兄さんから荷物が届いたことにとても驚きました。

そしてダンボールの中には、望遠鏡と一緒に、お兄さんのお母さんからのものと思われる手紙も入っていました。

手紙はお母さんが読んでくれました。

そこには、この望遠鏡を私に譲ってくれることが書いてありました。

そして、お兄さんがもうこの世界にいないことも綴られていました。

あの望遠鏡は、今も私の家のベランダに、いつでも雲を眺められるようにして置いてあります。

私は毎日机の前でパソコンに向かいつつ、天気の良い日はベランダでお兄さんの望遠鏡を覗き込みます。

そこにはやはり色々な景色が広がっていて、窮屈になってしまった私の空想の輪を広げてくれます。

あの大雨の日、お兄さんがなぜ雨雲を見てはいけないと言ったのかも知ることができました。

雨雲の中に広がる景色は、確かにこの世界に存在するのだけれど、あまり愉快ではない景色が広がっていました。

この望遠鏡から、どうして雲の中の景色が見えるのか。それは絶対に分かりません。

私以外の誰かに見せても、そこにはただの雲があるだけだと言うだけです。

でも私があの夏にお兄さんに出会ったこと。望遠鏡を一日中覗かせてもらったこと。大雨の日に怒られたこと。この望遠鏡をもらったこと。そして今も私の目に雲の中の景色が映ること。

それはまぎれもない事実なのです。

そして、ほんの一週間ほど前、私は夏の真っ白な雲の中にお兄さんの姿を見つけました。

お兄さんは雲の中でキャンパスに向かい、あの夏の日々と同じように絵を描いていました。

その姿を見て私は、あの少年時代の不思議な夏の経験を思い出し、この物語を書こうと思い立ったのです。

雲の中のお兄さんは、私に気づくこともなく、ただ一生懸命に、そして楽しそうに絵を描いていました。

私がただじっとお兄さんのことを見つめていると、雲は全体の姿をゆっくりと変化させていき、やがて薄いおぼろ雲に姿を変えました。

そして、雲の中のお兄さんもまた、私の目の前からすぅっと姿を消したのでした。

(了)

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