「今夜、空いてるか」
釣り仲間の友人が電話をかけてきて、藪から棒にそんなことを聞いた。
「空いてるには空いてるけど、なんだい」
「釣りに行かないか」
「今夜って……夜釣りか」
「そう」
「急な話だな。まぁいいけど」
「よし。じゃあ迎えにいくから」
友人はそう言って電話を切った。
「どこに行くんだい」
友人の車の助手席で僕は尋ねた。
友人は真夜中近くに車で迎えに来たがどうも向かっている場所の検討がつかない。
海とは逆方面に向かっているようだし、川だろうか。
「まぁ、いいからいいから。一時間くらいかかるから寝てろよ」
上機嫌で車を飛ばす友人に、僕はもう尋ねるのも億劫になって、助手席で目を閉じた。
「着いたぞ、起きろ」
友人に揺り起こされ、僕は目を覚ました。
「ん、着いたのか」
まだぼんやりしてる頭で辺りを見渡す。
「どこだ、ここ」
「いいから着いてこい。急ぐぞ!」
友人はなにやら焦っている様子で車のトランクから二人分の釣り道具を取り出している。
ドアを開けて外に出てみると、どうやらそこは山のようだった。
「おいおい、どこだよここは」
「いいからいいから。 ほれ、竿持て! 行くぞ!」
何を焦っているのか、友人は僕に釣竿を渡してせかせか歩き始めた。
「おい、どこ行くんだ」
山道から急に獣道に折れた友人に僕は声をかけた。
「いいからいいから」
そればっかり言う友人が少し怖くなる。
友人は僕の前をガサガサと音をさせながら草を分け入って進んだ。
友人の背中を追いかけていると、やがて開けた場所に出た。
そこには小さな湖があった。
ここで釣りをするつもりなのだろうか?
「よし、間に合った」
そんなことを言う友人にいよいよ僕は痺れを切らして尋ねた。
「間に合ったってなんだ? 待ち合わせでもしているのかい」
友人は僕の言葉が聞こえていないように釣り道具をおろし竿の準備をしている。
「おい!」
「いいからいいから、ほら、仕掛け」
友人はあらかじめ作っていたらしい仕掛けを僕に手渡した。
僕はそれを受け取りしぶしぶ竿に取り付けた。
友人が湖に釣り糸を垂らす。僕もそれにならった。
「いい加減教えて欲しいんだがね、間に合ったって言うのはなんだい」
「はは、悪い悪い。時間がなかったもんだから」
友人はそんなことを言って話を始めた。
「ここは”一夜湖”って俺が勝手に呼んでいる湖なんだが、一ヶ月ちょっと前に見つけた釣りスポットなんだ。ほら、いつだか俺が川釣りに行って遭難しかけた話をしたろ」
「あぁ、そんなこと言ってたな」
「その時遭難しかけたのがこの山なんだが、その夜俺が迷いながら歩いていると、いつしかここにたどり着いていたんだ。それで、その日も今日と同じ満月の日だった」
確かに、今日は綺麗な満月が空に浮かんでいる。
「それで、その日も今日と同じように、ほら、あんな感じで湖に月が浮かんでいたんだ」
友人が夜の湖面を指差す。
僕らが垂らした釣り糸の向こうに、ぽっかりと鮮やかな月が湖に反射している。
「あまりの綺麗さについ見惚れてね。その時だ。湖面を魚が跳ねたんだよ。 “鯛”がね」
「は? 鯛!?」
鯛は海水魚で、川や湖にいるわけがない。
「俺だって最初見間違いだと思ったさ。しかし、よくよく湖を覗き込んでみると、色々な魚が泳いでいるんだ。ん、かかった!」
友人が叫んで竿を引き上げる。
するとそこにはハマチがかかっていた。
「え、ハマチ!?」
「な、すごいだろ」
友人はいそいそとハマチを針から取ってスカリという一時的に釣った魚を入れておく網にハマチを入れた。
再び竿を湖に向けると、友人は言った。
「その日、俺はここで信じられないようなものをたくさん釣ったよ。サバやらヒラメやらハマチやら。この湖はな、満月の日になると不思議なことに海や川、あらゆる場所に住む魚が釣れるようになるんだ。釣り人にとってはまさに夢の湖だな。その日、釣れるだけ釣った俺は大満足で下山したんだ。自分が遭難しかけていたことなんて忘れてたよ」
ガハハ、と友人が笑う。
「それで味をしめて別の日にも来てみたんだがね、ダメだった。どうやら満月が湖に映る日じゃないとダメみたいだね。それで今日がその日だったから、おまえを呼んでみたというわけさ」
友人のそんな話を到底信じる気にはなれなかったが、元に友人が目の前でハマチを釣り上げたのだから信じるしかあるまい。
さらに言えば、先ほどから僕の竿にもあたりが何回も来ている。
釣り上げてみると、アオハタだった。
「湖でアオハタって……」
「ははは、いいぞ、どんどん釣ろう」
上機嫌な友人と一緒に僕はありとあらゆる種類の魚を釣り上げた。
「もうすぐ終わりだな」
友人がそう言って湖面を指差す。
さっきまで湖の真ん中に映っていた月が湖面の端の方に移動している。
「月が映らなくなったらお楽しみは終わりだ」
「なるほどね」
僕はそう答えながら、終わりまでにもう一匹くらい釣りたいなと思っていた。
その時だ。
背後から「ガササッ」という音がした。
振り返ると、何やら大きな塊がこちらに突進してくるところだった。
それは巨大な猪だった。
「あ、猪……!」
僕がそう叫びかけた瞬間、猪は友人の背中にタックルした。
「うわぁあぁあ!」
友人が叫びながら宙を舞い、ドボンと湖に落ちた。
猪はそのままの速度で湖の際を走り、森へと消えていった。
「おい!」
僕は釣竿を投げ捨て、湖面を覗き込んだ。
湖には大きな波紋ができている。
「おい、どこだ!」
僕は友人を探して叫んだ。
しかし友人は浮き上がってこない。
友人はフローティングベストを着ていたから、自然と浮き上がってくるはずなのだが……。
僕はその時、湖が妙に静まり返っていることに気がついた。
顔をあげてみると、そこには波風一つ立たない、静かな湖面が広がっていた。
先ほどまでしていた魚や生き物の気配がまったくない。
まさか、と思って僕は湖面の端を見た。
思った通り、湖面に映っていた月がなくなっている。
半ばパニックになって釣竿で湖面を闇雲に突いてみたりしたが、まったく反応はなかった。
僕は急いで車に取って返し、電波が入る場所で警察に連絡をした。
僕の報告を受けた警察や消防隊が湖を捜索したが、とうとう友人は見つからなかった。
友人はそのまま行方不明になり、僕は警察にあらぬ疑いをかけられることにもなった。
起きた出来事を警察に話してみたりしたが、それは警察の僕への疑いの念を強めるだけだった。
友人はまだあの湖にいるのだろうか。
それとも、別の場所に……。
僕は混乱する頭で必死にどうすればいいのかを考えた。
だが、答えは出ない。
しかし何もせずにいるわけにはいかないので、僕は次の満月の日にあの湖に釣り糸を垂らしてみようと思っている。
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