私は夜、池のほとりにあるベンチでぼーーっと池を眺めていた。
池というより、これは沼かもしれない。
池と沼の違いってなんだろう……。
そんなことをぼやぼやと考えていた。
仕事でくさくさした気分を家に持ち帰りたくなかったので、私はここでぼんやりしていたのだった。
「あー、もう今日はタクシーで帰っちゃえ!」
一人、謎の奮起をして、公園のそばを通る道でタクシーを捕まえた。
とはいえ公園からマンションは大して遠くないので、私は運転手さんに「ワンメーターですみません……」と言ってからタクシーを降りた。
部屋の前に立って、のそのそと鍵を取り出す。
が……。
「あれ、ない!?」
鍵がなかった。
どこに行ったのだろう。
あぁ、そう言えばあの沼を見つめながら私はジャラジャラと鍵を指で弄んでいたような気がする。
すると、あの公園に置いてきてしまったのか……!
私がそこまで考えた時、背後から”ペタペタペタ”という足音のような物が聞こえた。
なんだろう、と思い振り返る。
私はその場で卒倒しそうになった。
人間と同じくらいの身長のカッパがこちらに向かって走ってくる。
「きゃぁあぁあーー!!」
私は叫びながら部屋に逃げこもうと思った。
しかし部屋の鍵がない。
「ひ、ひぃいー!」
猛烈に走ってくるカッパに持っていたバッグを投げつけようとした私は、カッパが何かを差し出していることに気がついた。
「……?」
立ち止まったカッパは、じっとこちらに向かって手を伸ばしている。
その手の中に、私の部屋の鍵があった。
「え、これって……」
半分腰を抜かしながら私はカッパに尋ねた。
しかしカッパは何も答えない。
恐る恐るカッパに向かって手を伸ばし、鍵を手に取った。
「あ、あの……ありが、とう?」
私がお礼を言うと、カッパは伸ばしていた片手を降ろした。
その後どうするのだろうと私はその場で待ったが、カッパは動かない。
「えっえっ」
いくら待ってもカッパに動きはなかった。
私はとりあえず鍵を扉に差し込んで、中に入った。
覗き穴からそーっと外を覗き込んでみると、まだいる。
「あぁ、もう、と、とりあえず入って!」
騒ぎになってもまずいので、私はとりあえずカッパを家に引き入れた。
妙なことになった。
カッパはじっと玄関に佇んでいる。
一体どうすればいいのだろう。
動物園に連絡?
いや、カッパ引き取ってくれるのかな……。
カッパはもう二度と動かないという調子でそこに立っていたのだが、突然へにゃりとその場に座り込んだ。
「え、どうしたの」
私がカッパに駆け寄ると、カッパは力なく俯いた。
それを見て私はあることに気がついた。
「あなた、お皿乾いてない!?」
カッパの頭頂部にあるお皿がカピカピになっている。
ここまで走ってくる時に乾いてしまったのか。
私は急いでヤカンに水を汲んでカッパのお皿にかけてやった。
するとカッパは元気を取り戻したようで、立ち上がった。
しかし相変わらず何も言わないし、動かなかった。
私はとりあえずカッパを放っておいて、部屋着に着替えて晩ご飯を作ることにした。
その時に冷蔵庫の野菜室にきゅうりを見つけ、試しにカッパに差し出してみた。
するとカッパはそれを受け取ってぽり……ぽり……と食べていた。
美味しいのかまずいのか分からない表情だった。
翌日になっても、カッパはそこにいた。
私は仕事に行かねばならないので、「ここから水出るから!」とカッパに行ってから家を出た。
しかしすぐにペタペタペタとカッパが後ろを追いかけてきた。
「うわー! 何々!?」
まさか会社までついてくるつもりなのだろうか。
そんなことになったら『恐怖! カッパを連れた女』になってしまう。
カッパは私の目の前まで走ってくると、すっと右手をあげた。
そこには部屋の鍵が握られていた。
「あっ……」
急いでいたので家の鍵を忘れてきていたのだ。
「ありがとう……」
そう言って鍵を受け取る私の脇を、スーツ姿の男の人が通り過ぎていく。
しかし男の人は泣くでも喚くのでもなく、ただ不思議そうに歩き去っていった。
あれ、もしかしてカッパのこと見えていない……?
そういえば、私の家はおばあちゃんが”そういうもの”が見える家系だった。無駄な血筋である。
そんなことを考えているうちにカッパがペタペタと私の部屋に戻っていく。
私はカッパが家の中に入ったのを見て、鍵をきちんと閉めた。
もしかしてあのカッパは、忘れ物が異常に多い私の為に神様が寄越した使いなのでは……。
そんなことを考えながら会社に向かった。
それからもカッパは、私が忘れ物をして家を出るとペタペタペタと猛スピードで私を追ってきた。
カッパに追いかけられるのは嫌なので気をつけているうちに忘れ物癖が直った。
それは感謝をしなければならないが、とはいえカッパには沼に帰ってもらわないと。
こんなんじゃ男の人を呼べない。カッパが家にいる女。失恋決定だ。
あぁでも、その男の人にカッパは見えないよな。いやいや、ダメでしょ。
私はわざと忘れ物をしてカッパを沼まで誘導しようと思ったのだが、カッパは足がとてつもなく速いので、いつも追いつけれてしまった。
それならば、と私は毎日走り込みを行った。
カッパより速くならなくていい、沼まで追いつかれないだけの脚力を手に入れようと思った。
そしてある日、私はジャージを着て運動靴を履き、家を飛び出した。
もちろん、わざと忘れ物をして、である。
背後から扉の開く音がして、カッパが飛び出してくる。
私は足に力を込めて、あの沼に向かった。
カッパはやはり速かったけれど、私だって努力したのである。
何度もシミュレーションで走った曲がり角を曲がると、自転車とあやうく衝突しそうになった。
「す、すみません!」
私は謝りながら、そもそも自転車でよかったんじゃ、と今更ながら思った。
なんならタクシーでも……!
私は自分の馬鹿さに呆れながら走り続けた。
そしてなんとか沼までやってきた。
カッパもペタペタペタとやってくる。
私は膝に手をつきながら言った。
「いい!? ここがあなたの家なの! 分かった?」
私がそう言いながら忘れ物を受け取った。
するとカッパはペタリペタリと歩いて沼に入っていった。
そしてチョポンッと音を立てて沼の底に消えた。
はぁ……うまくいってよかった。
私はまたあの日と同じようにベンチに座って一息ついた。
そしてこれまたあの日と同じようにタクシーに乗って帰った。
「へへへ、ワンメーターですみません」
そんなことを言いながらタクシーを降り、私は鍵を取り出そうとジャージのズボンをさぐった。
「え、ない」
背後からペタペタペタという足音が近づいてきた。
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