体の弱い私の為に、夫が空気のきれいな場所に引越しを決めてくれた。
引越し先の家は人里離れた丘にあって、近くに小さな川が流れていた。
夫は前まで徒歩圏内にあった町の職場に車で出勤した。
一人息子の涼太はよく川で遊んだ。
すっかり川が気に入ったらしい涼太は毎日のように「川に行ってくるよ」と出かけて行くのだった。
ある日、夫が仕事に行った後、涼太はいつものように川に出かける準備をしてから言った。
「川になってくるよ」
私はいつもの習慣で「はーい」と返事をして朝食の後片付けをした。
皿をすすいでいる途中、はたと気がついた。
涼太は今なんと言ったのだろう?
聞き間違いだと思い、すぐにそのことを忘れてしまったのだが、その日涼太はいつまで経っても家に帰ってこなかった。
その日の晩から、私は夫と一緒に涼太を探し回った。
警察に捜索願も出した。
しかし、二日、三日、一週間経っても涼太は帰ってこなかった。
私は夫に思い切ってあの日のことを話した。
「涼太、あの日の朝、川になってくるって言ったの」
しかし夫はそんな私の話を真剣には聞かなかった。
「なに言ってるんだ。しっかりしてくれ!」
そう怒鳴って部屋を出ていってしまった。
私はリビングのソファで一人、毛布にくるまった。
そこが一番玄関に近い場所だからだ。涼太がいなくなってから、ベッドで眠っていない。
夜中、私はソファの上で目を覚ました。
家の中は静まり返っている。
あれだけ賑やかで幸せな空気に満ちていた我が家は昼も夜も静まり返っている。
毛布を肩まで掛け直した私の耳に「おかあさん」という涼太の声が響いた。
「涼太!?」
弾かれたようにソファから立ち上がった私は、耳を澄ました。
聞こえる。涼太の声が。
私は涼太の声を追って玄関から外に出た。
虫の声のする夜道を、涼太の声を頼りに進む。
すると川に出た。
涼太の声が聞こえなくなる。
「涼太? 涼太」
私は涼太の名前を呼んだ。
しかし涼太からの返事はなかった。
その代わり、背後から足音が聞こえた。
そこに夫が立っていた。
「僕にも聞こえたんだ」
夫はそれだけ言った。
私の隣に立った夫がかすれるような声でつぶやく。
「涼太……」
返事はなかった。
夫は川を見つめながら私に行った。
「あの日、涼太がいなくなった日、会社に涼太が来たんだ。涼太は、君に言った事と同じことを言ってた。でも僕は、ここに来ちゃダメだって追い返してしまったんだよ」
夫が私の肩を抱いてもう一度言った。
「涼太……涼太。そこにいるのかい」
夜の川からたくさんの蛍が飛び上がった。
蛍の光に照らされた川が輝き始める。
私の肩を抱く夫の手に力が込められた。
「涼太、辛くはないのか。心細くはないか。帰ってきていいんだよ。いつでもおうちに帰っておいで」
いつも涼太に厳しかった夫が、ありったけの優しい言葉をかける。
これまでの分とこれからの分、全て吐き出すように甘い言葉を掛け続ける。
涼太からの答えはない。
私たちは二人だけで夜道を歩き、家に帰った。
翌朝、夫が車に乗らずに川沿いを歩いて町へ下りていく。
夫の背中はまるで涼太との会話を楽しむように揺れていた。
私は朝食で使った食器を洗い終えるとテレビの音を消した。
そしてしばらくの間、涼太が鳥や魚と戯れるさわさわという音に耳を澄ました。
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