面白いホテルがあると聞いて、俺はここにやってきた。
なんでもこのホテルでは、ある決められた”ミッション”をこなすことで宿泊代がタダ同然になるらしい。
そのミッションなのだが、例えばある部屋には「泊まっている間、水をまったく使わない」というミッションが課せられている。
トイレは共同トイレのみの使用に限られ、部屋にある水道はまったく使えない。
通常の宿泊も可能なので部屋の設備として洗面台などはあるのだが、その水道を少しでも使ったらアウトなのだ。
まぁこれはかなり簡単なミッションなので宿泊代の割引額も低く設定されている。
気をつけていれば回避可能だからだ。
厄介なのは、例えば「あくびをしてはいけない」などのミッションが課せられた部屋である。
部屋の様子はモニタニングされ、一度でもあくびをしてしまったらアウト。
ミッションに失敗すると通常の宿泊代の二倍の金額を支払わなければならない。
あくび禁止部屋の場合はすぐに寝ることが最善だと考えられるが、朝起きた瞬間に油断してあくびをしてしまう可能性が高いのだ。
他にも「泊まっている間は顔に触れてはならない」といったミッションが課せられている部屋もある。
これはかなり難易度が高い。
人は無意識にかなりの頻度で顔を触っているものだからだ。これも寝起きが危ないと言われている。
そんな中……俺が今日挑むのは、数々のミッションの中でも”最高難易度”の呼び声高いミッションである。
その部屋に課せられたミッションは「音を立ててはいけない」というものだ。
実際にはごく小さな音、例えば着ている服の衣擦れ音やドアが閉まる音などは立てても良いのだが、それ以上に大きな音を立てると即アウトである。
当然、トイレを流す音や風呂の音などはアウトなのでトイレは共同トイレで済ませ、風呂は我慢する必要がある。
俺は部屋の前で深呼吸をしてから部屋に入った。
部屋の中はしんと静まり返っている。
俺は慎重に扉を閉め、ドアノブから手を離した。
ふぅっと息を吐くその音も極限まで小さく抑える。
部屋を進み、ベッドの側まで進んだ。
と、俺はその場で早くも叫びそうになった。
部屋の入口から死角になっているベッド脇の壁に人が立っていたのである。
その人間はホテルの従業員が着ている服を身に着けており、ベッドメイクをしていた。
従業員はメイクを終えると部屋から出ていった。
ちくしょう、危なかった……。
あれはホテル側の仕込みだろう。
まったく、油断ならない。
俺は服を寝間着に着替えると、さっさと眠ってしまうことにした。
歯磨きをどうするか迷ったが、音が大きすぎる懸念がある。
一日くらい磨かなくても死にはしないと、俺はベッドに体を滑り込ませた。
枕に頭を下ろしたその瞬間、隣の部屋との壁が「ドンッ」と鳴った。
不意をつかれたが、なんとか声は抑える。
もう一度壁が鳴った。
クソッまさかこのまま一晩中壁を殴り続けるつもりじゃないだろうな……!?
だがそれ以降壁は鳴らなかった。
あと注意すべきは寝言であるが、これは正直、運否天賦の領域である。
だが俺は元々寝言を言わない質なのでおそらく大丈夫だろう、と思う。
それから俺は半ば無理やり眠りについた。
翌朝。
目を覚ました俺はまず枕元を確認した。
寝ている間に俺が規定以上の音を立ててしまった場合には枕元のアラートが点灯してチャレンジ失敗を告げているはずである。
しかしアラートは点灯していなかった。
よし、もう勝ったようなものだ……!
俺は爽やかな気分で窓を開けた。
と、窓の外に男が立っていた。
うっ……!
俺は叫び声を無理やり口の中で押し殺した。
男はやがてすぅっとその姿を消した。
くそ……なんだったんだ。
俺は心臓の音が外に漏れていないかと心配しながら朝食を食べる為に部屋を出た。
朝食は一流ホテル並の豪華な朝食で、思う存分ごちそうを堪能してから部屋に戻った。
荷物をまとめて出口のドアに手をかける。
あとはチェックアウトだけだ。
勝った。
飯はうまかったし、これで宿泊代は百円だなんて、まるで悪いことでもしているみたいだな。
ドアを開けて外に出ようとした俺の目の前にホテルマンが立っていた。
「あっ」
しまった、と思った時には遅かった。
部屋に設置されたアラートが点灯し、ミッション失敗を告げていた。
「人は勝ちを確信した時が一番脆いものです」
ホテルの支配人が俺にそう言った。
ミッションに失敗した俺は三万円の宿泊代を支配人に支払ったのだった。
「まったく、やられたよ。完全に油断した」
「さようでございますか」
「うん。色々やられたけれど、結局一番びっくりしたのはあの窓の男だよ。あれはどうやったの?」
俺がそう聞くと、人の良さそうな支配人はにやりと笑って言った。
「企業秘密なのでが……あれはホログラムです」
「ホログラム……?」
「はい」
そう言う支配人の横に、いつの間にか男が立っていた。
それはあの窓の外に立っていた男だった。
男の姿は、よく見ると半分透けていて、手を触れてみるとそこには誰もいなかった。
「やられたよ。完敗だ」
俺はそう言ってホテルを後にした。
ミッションに破れた俺はしばらくあのホテルには近づかないつもりでいた。
しかし翌日、なんと俺は警察から呼び出しを受けて再びあのホテルに向かったのである。
ホテルに着くと、刑事を名乗る男が俺をホテルにある応接間に案内した。
「昨日の晩、こちらの部屋に宿泊されましたね」
刑事がそう言って指差したのはホテルの間取り図だった。
刑事が指差していたのは俺が泊まった部屋だったので、大人しく「そうです」と答える。
「そうですか。昨日……夜の十時頃ですがね。何か物音を聞きませんでしたか」
「物音……?」
昨日のその時間と言えば、俺はもう寝ていたはずである。
いや、正確には寝ようとしていた時間だったか。
だとしたら。
「壁を叩く音みたいなものを聞きましたが、あれはホテル側の演出だと思いますよ」
「”ミッション”というやつですか」
「えぇ」
「残念ながら、それは違うようです。先ほど支配人に確認しましたが、そんな演出は行っていなかったらしいので」
刑事はそれだけ言うと、早々と席を立ってしまおうとする。
「ちょ、ちょっとちょっと。何があったんですか?」
「……」
「質問だけするだけしておいて、そりゃないでしょう」
俺がしつこく食い下がると、刑事はしぶしぶという様子で言った。
「昨晩、あなたが泊まった部屋の隣の部屋で人が亡くなったんですよ。服毒自殺です」
「いただいた宿泊代はお返ししますのでどうがこのことはご内密に」
ロビーに戻った俺に、支配人はそう言って金を返してきた。
昨晩、俺が泊まった部屋の隣で人が死んだ。毒を飲んで。
すると、昨晩俺が聞いたあの「ドンッ」という音は、毒を飲んだその人が苦しさのあまり壁を叩いた音だったのか。
それとも、もしや死ぬつもりなんかなくて、俺に助けを求めた……?
嫌な方向に想像が及んでしまいそうになり、俺は慌てて金を掴むようにして受け取って、ホテルを後にした。
「ドンッ」というあの嫌な音がいつまでも耳に残っていた。
しかし俺が真の恐ろしさを知ることになったのは、その事件から数年の時が経った頃である。
ある日「そんなこともあったな」とあのホテルのことを思い出した俺は、何気なくホテルのホームページを覗いてみた。
すると、驚くべきことにまだそのホテルは営業しており、ミッション達成で割引のあのキャンペーンも継続して行っていた。
しかも調べてみる限り、ミッションが課せられているのは、あの服毒自殺があった部屋なのである。
ミッション内容は「その部屋で一晩過ごすことができればミッション達成」というものになっていた。
使い古された表現ではあるが、真に恐ろしいのは人の業というものか。
脳裏にあの人の良さそうな支配人の顔が浮かび、俺は身震いした。
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