想い人bar

ショートショート作品
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 私には悩みがあった。

 それは「好きな人がいない」ことである。

 昔から誰か人を好きになるということがなかった。

 私は飲み会の席で特に仲の良い同僚についそんな話をしてしまった。

 するとその同僚は「いい所があるよ」とあるバーを紹介してくれた。

 そこは好きな人のことを話す人専用のカウンターバーらしい。

 客一人につき一人、バーテンダーさんがついて、想い人の話を聞いてくれるというのだ。

「そこに行ってみれば、好きってどういうことか分かるかもよ」

 数日後、私は同僚に勧められたバーにやってきた。

 そこは確かにカウンターバーで、たくさんのお客さんがバーテンダーさんと向かい合って話をしている。

 私は案内された席で女性のバーテンダーさんに言った。

「すみません、私、実は好きな人がいるわけじゃなくて……普通にお酒を飲むだけでもいいですか?」

 バーテンダーさんは「もちろんです」と言って私の好みを聞いてカクテルを作ってくれた。

 バーテンダーさんに改めてこのお店のことを聞いてみると、ここにはカウンターだけではなく、話を他の人に聞かれたくない人の為の個室などもあるらしい。

 周りを見ると、みんな嬉しそうに想い人について話をしていた。

 中には泣きながら話をしている人もいる。

 私はそんなお客さんの中で一人のお客さんのことが妙に気になった。

 その人はご高齢の女性で、漏れ聞こえる話の内容から察するにどうやらその人の想い人とは旦那さんのことらしかった。

 おばあさんの話は愚痴のようなのだが、話が終わった後にいつも「しょうがない人なのよ」と笑うので、私にはまるでのろけ話のように聞こえた。

 そっか、ここで話すのは「想い人」だから片思いの人だけじゃなくてもいいんだ。

 私はなんだか温かい気持ちになってお酒を一人楽しんだ。

 一時間ほどお店でお酒を飲み、お会計に向かうとなんと先ほどのおばあさんとちょうど退店が同じタイミングになった。

 目礼をして私の前を歩き始めたおばあさんに私は思わず「あ、あの!」と声をかけた。

 お酒が回っていたのだろうか。

 私は優しそうなおばあさんと一緒に駅への道を歩く道すがら自分のことを話してしまった。

 おばあさんは嫌な顔ひとつせず、私の話をゆっくり聞いてくれた。

「す、すみません。いきなりこんな話をしてしまって」

 そう謝った私におばあさんは言った。

「いいのよ。ところであなたに一つだけ伝えたいことがあるのだけれど、いいかしら」

「は、はい」

「好きな人がいないって悩んでいるみたいだけど、好きな人がいなくちゃいけないわけじゃないのよ。それに、好きな人は男性でもいいし、もちろん女性でもいい。後から好きになるなんてこともあるしね」

「あとで、ですか?」

「うん。私は今の夫とお見合い結婚をしたんだけど、私はあの人のことを結婚してから好きになったの。好きになるといっても色々な形があるから、焦らなくていいんじゃない?」

 そう微笑みかけてくれたおばあさんと私はそれから何度かお酒を一緒に飲んで、飲み友達になったのだった。

 おばあさんと出会ってから数年後、私はあの想い人バーを一人で訪れた。

「好きな人の話をしたいんです」

 私はバーテンダーさんにそう言った。

 カクテルを作ってくれたバーテンダーさんを相手に私は話を始めた。

「その人はとっても優しくて、いつも紫色の服を着ていて。その人の周りだけいつも穏やかな空気が漂っていました。その人は、私に”好きな人がいなくてもいい”って笑いかけてくれた初めての人なんです」

 私はそう話をしながら涙を流してしまった。

 涙をぬぐって顔を上げると、話を聞いてくれていたバーテンダーさんも泣いている。

 そのバーテンダーさんは、私が初めてこのお店に来た時におばあさんの話を聞いていたバーテンダーさんだ。

 ハンカチで涙をぬぐったバーテンダーさんが「私もその人、好きなんです」と言って笑う。

 私たちはその日、いつまでも想い人の話をしながら泣き、そして笑ったのだった。

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