浮き輪国の紳士に出会ったのは、僕が無人島で遭難していた時のことである。
一人で島巡りをしていたところ、船が突然大破。
なんとか流れ着いた無人島で「これまでか」と途方に暮れていると、海岸の近くに大きな浮き輪と紳士が現れた。
紳士は直径十メートルはあろうかという大きな浮き輪の端で、下半身は海の中につけながら、両手を後ろで組み、浮き輪を枕にして昼寝を楽しんでいた。
「ちょ、あの!」
僕が大きな声を出すと、紳士はゆっくりと目を開けた。
「ん? 私かい?」
「あ、はい。あの、実は私、遭難してしまって」
「ほう」
紳士はそう返事をすると、何やら浮き輪についているスイッチのようなものを操作した。
浮き輪がスイスイとこちらに近づいてくる。エンジンでもついているのだろうか?
「やぁ、こんにちは」
紳士はそう挨拶をした。
「君は日本人かな?」
「あ、はい、そうです」
「なるほど。遭難しているということは、その島から出れなくなったということだね?」
「そうなんです。助けていただけませんか」
「うむ。いいだろう。入国を許可する。来たまえ」
紳士はそう言って手招きした。
入国……?
「この浮き輪を跨ぐと我が国の領地だ。通常は手続きをしなければ入国は許可できないが、今は緊急事態だからね。さぁ、どうぞ」
僕は紳士に促され、浮き輪を跨いで浮き輪の中に入った。
浮き輪に掴まって海に浮かぶ。
「あの、国、というのは……?」
紳士はまた両手を後ろで組んで、浮き輪を枕にして海に浮かびながら答えた。
「この浮き輪の中は浮き輪国の領土でね」
「うきわこく……?」
「そう、浮き輪国。この浮き輪が囲む海が我が国の領土というわけだ。さて、では少し沖に出ようか。そのうち外交の船などが通りかかるだろう。君はその船に助けてもらうといい」
そう言うと紳士はまた浮き輪を操作した。
浮き輪がゆっくりと沖へ出ていく。
大丈夫なのか、と少し不安になった。
この紳士、もしかしたらかなりヤバい人物なのかもしれない。
しかしここまで流れ着いたということは、とりあえずこの紳士についていけば死ぬこともないのでは、とも思う。
少なくとも無人島で人知れず衰弱していくよりはマシな気がする。
「いい天気だ。こんな日に遭難とは君もついてないな」
「はぁ……」
気持ちよさそうに目を細める紳士に、僕は聞いてみた。
「あの、浮き輪国というのはどのような国なのでしょうか」
「君は海底人を知っているかな?」
「は……海底人?」
「そう、海の底に住む人のことだ」
「いえ、あの……それは昔話とかそういった類の話でしょうか」
「昔話と言えばそうだが。まぁ、今の地上人は海底人との戦争について知らない者がほとんどだからね」
それから紳士が話した内容はこうだ。
昔、海底に住む人間、海底人と地上に住む地上人の間で戦争が起こった。
海の覇権を巡って争ったそうだが、戦争は地上人の勝利に終わり、海底人はこの浮き輪が浮いている内側の海のみを領土として、あとは海底に引っ込んだらしい。領土は、浮き輪の流れに合わせて世界各地を変動する。
「とまぁそんな顛末だが、何しろ大昔の話だ。今じゃそんな海底人の存在すら知らない地上人の方が多いだろう。君もこんな話を聞いたことがあるんじゃないかね。宇宙と同じように海底は謎に包まれている、と。そうとも。地上人は海底についてほとんど知らない。海底人が住んでいることもね」
紳士はそう説明した。
「ということは、あなたも海底人なのですか」
「そう。海底と地上の海をつなぐこの浮き輪の管理官だ。さしずめ、君たちの言葉で言えば外交官というところかな」
「ずいぶん日本語がお上手なんですね」
「そりゃこの浮き輪で世界中の海をたゆたっているからね。ほとんどの国の言葉はしゃべれるよ」
紳士がそう言って笑った時だった。
突然、浮き輪の真ん中の海が泡立ち、海中から人の頭が飛び出した。
「うわぁあぁ!」
僕は思わず叫んでしまう。
海中から顔を出した人間は、僕を見て「誰?」と紳士に尋ねた。
「地上の迷い人だよ。どうした?」
「あぁ、えっと、木材が欲しくて」
「了解した」
紳士が答えると、海底人とおぼしき人物はチラリと僕を見てから海の中へ戻って行った。
海底人は人間とほとんど外見が違わないらしい。半魚人のようなものだと想像していたのだが。
「地上人からは物資を譲り受けることもあるんだよ。反対にこちらから物資を提供することもある。戦争は大昔。持ちつ持たれつの関係をしているというわけさ」
「はぁ……」
僕がそんな生返事をすると、遠くの方からエンジン音が聞こえてきた。
小型の高速船がこちらにやってくる。
「おっと、ちょうどよかった。彼に助けてもらおう。おーい」
紳士が高速船に向かって手を振る。
船は浮き輪の近くまでやってくると、止まった。
船から男が顔を出す。
「やぁ、アーノルドさん、どうも。何か入り用かい?」
「いや、実は彼が遭難してしまったようでね。彼を最寄りの港まで送ってあげてくれないかい?」
「お安い御用だよ。災難だったね、君」
「あ、はい」
「よかったね」
紳士がにこりと笑う。
「あの……ありがとうございました」
「いいや。今度は遭難に気をつけて」
紳士に促され、僕は浮き輪の外に”出国”した。
高速船に乗り込む。
「じゃあ、行くよ」
「はい、お願いします」
船の男がエンジンをつけると、紳士と大きな浮き輪は船の起こした波でゆらゆら揺れた。
船が出発する。
僕は船の男に尋ねた。
「あの……あの人が浮き輪国の外交官だというのは本当の話なのですか?」
「浮き輪国? あの人はアーノルドさんっていう資産家だよ」
「え?」
「あのヘンテコな大きな浮き輪でいつも海に浮かんでいるのさ。で、たまに何か欲しいものがあると港にやって来るっていうわけ」
「え……じゃあ、海底人というのは」
「海底人? なんだい、そりゃ」
そう言って男が笑い出す。
あの紳士の言っていたことは全て嘘だったのだろうか。
でも、僕はあの紳士の言っていたことは本当だったような気がする。
あのヘンテコな大きな浮き輪。
無人島の近くを浮き輪だけでただフラフラと漂う紳士。
そして海中から顔を出した人間。
僕は操舵室から顔を出し、振り返った。
とっくに紳士と浮き輪は見えなくなっている。
紳士の話が本当だったのか、それはもう分からない。
しかしこれだけ大きな海だ。
不思議な話の一つや二つ、あってもいいだろう。
あの紳士と浮き輪は今、どこに向かっているのだろう。
行先などないのかもしれない。
波まかせ、海まかせ。
あの紳士にまた会えるだろうか。
僕は高速船が作る白い波のずっと向こうを、いつまでも見つめていた。
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