まだ小さい頃、お母さんと一緒に「姫草」を植えた。
「この草はね、あなたにとって運命の人が現れたら花を咲かせるのよ」
お母さんはそう言っていた。
「お母さんの姫草はお父さんが来た時に咲いたの?」
私がそう聞くと、お母さんはちょっと照れながら「そうよ」と笑った。
私はお母さんと一緒に植えた姫草を一生懸命育てた。
水やりも欠かさず、鉢に植えた姫草を晴れの日は日光に当て、雨風が強い日は部屋の中に入れた。
姫草は長寿の植物で、何十年も枯れることはなかった。
だが……その花が咲くこともなかった。
私は気づけばもう三十代も半ばの歳になっていた。
結婚をしなければ幸せになれないわけじゃないということは分かっているけれど、願望を持ち続けて来たのも事実。
これまでの日々、私は姫草を恨んだりもした。
いずれ私は運命の人に出会える。そう思っていたから積極的に相手を探すことをしなかった。
でも周りの友達は自分からアプローチをしたからこそ良い人と出会ったのではないか。
そんな風に考えたのである。
私はある決心をしてお母さんに電話をかけた。
「もしもし、お母さん?」
「うん。どうしたの?」
「お母さん……ごめんね。私、姫草を手放そうと思うの」
お母さんは少しだけ間をあけてから「そう」とだけ言った。
その少しの間にお母さんの色々な気持ちが含まれている気がした。
「今度いつ帰ってくるの? 早く帰ってきなさいよ〜」
お母さんは姫草のことなど興味がないようにすぐ関係のない話題を話し始めた。
私は心の中だけで「ごめんね、お母さん」と謝った。
私は姫草の鉢を持って近くの緑地公園にやってきた。
小さな山のようになっている場所に姫草を植えかえる。
手放すと言っても、捨てることはできなかった。
「ばいばい。今までありがとう」
私は小さくそう言って、その場を去ろうとした。
すると、背中の方から「その花、綺麗ですね」と声をかけられた。
振り返ると、そこにイーゼルに向かって絵を描いている男の人がいた。
男の人は私と同い年か少し年上くらいに見えた。
「なんていう花ですか?」
彼がそう言ったので、私は思わず姫草を振り返った。
すると、いつまで待っても咲かなかった姫草が今、美しい花を咲かせていた。
「姫草という……花です」
「そうですか」
男の人はもう興味がなさそうに絵の続きを描き始めた。
何か言わなくちゃ、と私は思った。
“何を描いているんですか?”
“このあたりの人ですか”
いくつも言葉は思い浮かぶのに、口から出てこない。
結局私は男の人の邪魔をしないように小さく頭を下げて、その場を去ろうとした。
「あ、あの!」
男の人の声が私の背中を追いかけてくる。
振り返ると、彼はもう絵を描いていなかった。
「姫草を、描いてもいいですか」
彼にそう聞かれて、私は頷いた。
「ありがとうございます。綺麗な……花だから。あの、もしよかったら完成した絵を見てくださいませんか」
真剣な眼差しの彼に、私は「はい」と、やっとそれだけ答えた。
私の答えを聞いて彼は初めて見せてくれた笑顔で言った。
「僕はいつもここで描いていますから。そうですね……それじゃあ、待ち合わせはこの姫草の前で」
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