私はあるバーにやってきた。
そこは入り組んだ路地の先にあり、私以外に客はいなかった。
バーには酒のボトルがずらりと並んでいる。
その全てに名前が入っていた。
ここに置いている酒は「名取り酒」と呼ばれる酒で、世にもうまい酒なのだが、その酒を呑んでつぶれると名前を取られてしまう。
自分の名前のはずなのに、どこか他人の名前を呼ばれているように、しっくり来なくなってしまうのだ。
「酒を」
私がそう言うと、マスターらしき男がやってきて、私の目の前に名前のないボトルを置いた。
「変わった酒らしいね」
私が言うと、マスターは「そうでもないですよ」と下品な笑みを浮かべた。
酒のボトルを開けて一口呑む。
うむ、うまい。
酒を次々に口へ運ぶ。
ボトルを空ける頃にはかなり酔いが回っていたが、酔い潰れるほどではない。
しかし、トイレに行こうと立ち上がった瞬間、くらっと来た。
私はトイレに入ると、指を突っ込んで吐いた。
なんとか潰れないで済んだ……。
マスターに言って会計をする。
少し高い酒、という感じの値段だ。
私はレジ業務をしているマスターに言った。
「その酒なんかはうまいのかい」
壁にあるボトルを指差す。
そのボトルには「雄馬」と名前が書かれている。
マスターはニヤリと笑うと言った。
「えぇ。ちょっと辛めでいい酒ですよ」
「へぇ。それは気になるね。その酒、呑ませてくれないか。金なら倍払う」
私がそう言うと、マスターはまたニヤリと笑って「いいですよ」と答えた。
マスターがボトルを持って酒を注ぐ。
「マスターもどうだい」
私がボトルを向けると、マスターは「いいんですか」と相好を崩した。
マスターが自分の分のグラスを取りに行く。
戻ってきたマスターに、私は酒を注いでやった。
一時間後、マスターは完全に潰れた。
名がついたボトルで潰れることはないと思ったのかもしれないが、先ほど酒をすり替えておいたのだ。
名前のないボトルの酒を呑み続けたマスターは酔い潰れ、名前を失った。
私は「雄馬」と書かれたボトルを割った。
これで名前は持ち主の元に帰るはずだ。
私の親友だった男。
ある日から、名前を呼んでも反応しなくなった。
これでまた名前を呼んだら振り向いてくれるだろう。
棚に並んでいる酒も全て割った。
酔い潰れて床に寝ているマスターを見下ろす。
この男に呑ませた酒は、あとで山にでも埋めよう。
男に呑ませた酒のラベルを見てみると、こう書いてあった。
“名無し”
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