同僚の田沼さんが「今日、少し残ってくれるかな」と言ってきた。
「はぁ」
僕がそう返事をすると、田沼さんは自分の席に戻って行った。
僕たちが働いている銀行にはそれなりの行員がいる。
僕と田沼さんを除く全員が帰宅した後、改めて田沼さんがやってきて言った。
「お願いがある。君に鍵番になってほしい」
「鍵番……ですか」
鍵番とは、最後まで銀行に残って鍵をかける当番のことだが、普通は支店長などが担当する。
だが、この銀行ではなぜか、年長者ではあるが平行員の田沼さんが担当していた。
田沼さんは言った。
「君にしか頼めないんだ。お願いできないかな」
鍵番になるということは、つまり、最後まで残らなければいけないということだ。
必然、勤務時間が長くなる。
「もちろん、手当は出る」
そう言う田沼さんに、僕は以前から気になっていたことを聞いた。
「そもそも、なんでうちの鍵番って田沼さんなんですか? あと、うちって夜間の警備員を置いてないって話ありますけど、あれ本当なんですか? もしそうなら、なんで」
「君の疑問には後で答える。それじゃあ、そうだな……あと一時間ほど残ってくれないか」
「えぇ? いいですけど……」
それから一時間ほど経つと、あたりはすっかり暗くなった。
田沼さんが近寄ってくる。
先ほどの僕の質問に答えてくれるつもりなのだろうが、その理由はもうとっくに分かっていた。
僕は席から離れていた。
なぜなら、さっきからたくさんの幽霊がこの銀行に集まってきていたからだ。
僕の席には、見知らぬ幽霊の男が座っている。
田沼さんが僕の席をちらりと見てから言った。
「見えるよな?」
「こ、これはどういうことなんですか」
「ここはさ、夜間だけ貸してるんだよ」
「貸してる?」
「そう。いわゆる、そういう世界の人たちに」
「……でも、この人たちはここで何をしているんですか。あの世にもお金があるんですか?」
「いや。彼らは”徳”を貯めにくるらしいよ。徳を貯めれば生まれ変われる、と聞いた」
それから田沼さんは僕に鍵を差し出した。
「この鍵を君に預ける。君、霊感があるよね。もう見えているようだから、疑いようはないが。この役割は、彼らがきちんと見えている人にしか務まらないんだ。頼む。この薄ハゲの最後の頼みだと思って」
「最後だなんて 縁起でもない」
田沼さんは僕にぺこりと頭を下げる。
頭頂部が寂しくなっている田沼さんの退行は近い。
僕はこの人にずっとお世話になってきたし、たくさんのことを教わった。
「……わかりました」
僕は田沼さんの手から鍵を受け取った。
田沼さんは顔を上げて嬉しそうに「ありがとう」と言って相好を崩した。
それから僕は鍵番として最後まで銀行に残ることになった。
鍵番を務めるようになって、一年が経った。
今日も、彼らの邪魔をしないように慎重に身支度を整えて、扉の外に出る。
それから鍵を締めて、念の為何度も鍵を確認してから、帰ろうとした。
しかしその時、ふと、彼らの客の中に、懐かしい薄ハゲを見たような気がしたのだった。
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