「眠気買い取ります」
最初そんな募集を見た時は完全に怪しいなと思った。
眠気を買い取るなんて、そんなバカなことがあるはずがない。
と言いつつも、大学のサークル旅行資金としてどうしてもお金が欲しかった僕はその怪しい募集に応募したのだった。
「はい、終わりです」
眠気の提供はあっさり終わった。
一人暮らしの僕の部屋にやってきたのはきちんとした格好をした男の人で、名前を橘さんと言った。
橘さんは頭に装着する「眠気を吸引する装置」を僕の頭にかぶせ、何やらボタンを操作した。
すると、さっきまでなんとなくぼんやりとしていた頭がスッキリとして、目覚めの良い朝のような爽快感に包まれた。
「ではこちら今回の買い取り代金になります」
そう言って橘さんは僕に10万円を手渡した。
「え、こんなに!?」
「えぇ。今回頂戴した眠気は約十時間相当の眠気でしたので、一時間1万円として換金させていただきます」
そう言いながら装置をしまっている橘さんに「眠気なんか買い取ってどうするんですか」と聞いてみると、
「不眠に悩むお客様に眠気を提供しております。世の中には、眠りたくないけど眠い人、眠りたいのに眠れない人がいるんです」
と答えた。
なるほど、需要と供給のバランスで橘さんの商売は成り立っているらしい。
しかし、眠気を売るなんて、眠りたくない僕のような人間にとっては最高のアルバイトだなと思った。
眠くならなければ一晩中遊び呆けてても平気なのである。
いわば、一日の時間が二倍になるようなものだ。
それから僕はお金が必要になると橘さんを呼んでどんどん眠気を買い取ってもらった。
眠気の吸引にかかるのはものの1分程度。
それで10万円近くのお金がもらえるのだからもう普通のアルバイトなんて出来ない。
「適度な睡眠も人間にとって必要なものですから、ほどほどに」
そう橘さんは言っていたが、僕は体が疲れたなと思ったら横になってスマホをいじったりちゃんと体を休めているので平気だった。
そう思っていたのだが。
どうも最近、なんとなく体がだるい。若干熱っぽい気もする。日常的に注意散漫になり、大学の課題が思うように進まなくなってきた。
これはダメだ。一回しっかりと休もう。
そう思って僕は布団に入ったのだが、眠くない。
何度も眠気を売った僕の体は、まるで眠ることを忘れてしまったかのように、眠ることを拒否した。
ベッドに横になり、電気を消して、目をつむる。
しかし眠れない。
体全体が軽く痺れたような感覚に包まれるだけで、意識は覚醒している。
僕は完全な不眠症になってしまった。
しかも生半可なものではない。
まったく、眠れないのだ。
そんな感じで三日三晩ベッドに横になっていたのだが、一睡もすることができなかった。
鏡を見ると、顔色がどす黒いものに変色している。
いよいよ生命の危機を感じた僕は、橘さんに連絡した。
眠気を買いたいと言った僕に橘さんが提示したのは「一時間10万円」というとんでもない金額だった。
「冗談でしょう!?」
「お得意様価格でこちらのお値段になります」
買い取る時は一時間1万円で、売る時は一時間10万円なんて、とんでもない暴利だ。
もしかしてこいつらは人から眠気を買い取ってわざと不眠症にして、高額で眠気を買い戻させるという汚い商売をしているんじゃないか。
僕は睡眠不足で極限まで苛立った頭で橘さんに抗議をした。
「そうおっしゃられましても。私は忠告させていただいたはずですし、無理に眠気を買っていただかなくても構いません」
眠気を注入する装置(やはり頭に被るらしい)を片付け始めた橘さんを慌てて止めた。
「ま、待って。じゃあ、一時間買います」
「かしこまりました」
橘さんが僕に装置を被せ何やらスイッチを操作すると、あっという間に僕は眠りについた。
しかし、すぐに目が覚めてしまった。
時計を見ると、きっかり一時間しか眠れていないようだ。
橘さんはいつの間にかいなくなっていて、”またご用命があればいつでもご連絡ください”という書き置きが残されていた。
たった一時間の睡眠では、体の調子は戻るはずもない。
僕はすぐに橘さんを呼び戻すと、さらに10時間の眠気を買い取った。
数日後。
「お金が足りないようですが」
「すみません。あの、今度親にお金を借りてお支払いしますから。どうか、どうか一時間だけ」
「申し訳ありませんが、うちは現金取引のみとなっておりますので」
そう言って、橘さんが出て行ってしまう。
僕はもう眠気を注入してもらわなければ眠れない体質になっていた。
しかし眠気を買い取る資金はとうに底をついており、僕はなんとか橘さんに泣きついてみたのだが、無駄だった。
僕は眠っていないことにより震えが止まらない手でなんとか実家の両親に電話し、お金を工面してくれるように頼み込んだ。
しかし両親はお金はやらないといい、とにかく一度実家に戻ってこいと言った。
僕は大学をしばらく休むことにして、その日のうちに実家に戻った。
僕を叱りつけるつもりだったらしい両親は、憔悴しきった僕を見て何も言わなかった。
実家に戻れば眠気も戻るかと思ったのだが、母が敷いてくれた布団に横になっても、まったく眠ることができず夜を迎えた。
夜中、喉が渇いたので布団から起き出して台所に向かった。
すると、もう夜中の二時だというのに、母が台所にあるテーブルの椅子に座っていた。
「母さん?」
「あら。やっぱり眠れないの?」
「……うん」
「じゃあ、これ飲みな」
そう言って母が出してくれたのは、ホットミルクだった。
「あんたがまだ小さい頃、昼寝をしすぎて眠れないって時によくこれを飲ませてあげたんだよ」
そう言って母が差し出してくれたホットミルクは、温かくて、ほのかに甘い匂いがして美味しかった。
小さい頃のことはよく覚えていなかったけど、それはどこか懐かしい味だった。
「母さんはもう寝てていいよ。僕はもうちょっとここにいるから」
「それ飲んでも眠れなかったら起こしていいからね。その時は子守唄歌ってあげる」
「やだよ、子供じゃあるまいし」
僕がそう言うと、母は笑って寝室に戻っていった。
夜中の実家の台所はとても静かで、ホットミルクから立ち上る煙を見ていると、眠れないのになんだか安らかな気持ちになっていった。
「……ん」
はっと気がつくと、僕は台所のテーブルに顔を突っ伏して眠っていた。
肩には布団がかかっている。
「やっと起きた」
そう言って、皿洗いをしていたらしい母が振り返って笑う。
「布団に運ぼうと思ったけど、あんた重いんだもん。もうお父さんも会社行っちゃったよ。ご飯食べる?」
台所にある小窓から外を見るとすっかり日が昇っていて、外からはすずめの鳴き声や車が行き交う音などが聞こえてきた。
「……いい。もうちょっと寝る」
「コラ、寝るなら布団行って寝なさい!」
そう言って怒る母の声と皿をすすぐ水の音を聞きながら、僕はまた、深い眠気の底に落ちていった。
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