「じゃあこの話、よく揉んどいてくれ」
会議の終わり間際、課長は僕と伊藤先輩に向かってそう言った。
「はい」と二人、返事をして会議室を出る。
「早速行こうか」と伊藤先輩が言ったので、僕たちは三階フロアに上がった。
「田中さん空いてる?」
伊藤先輩が三階フロアの入り口にいる社員に声をかける。
「はい、大丈夫ですよ」
「OK、三十分くらいお願いするよ」
「分かりました」
受付の社員に見送られて僕たちは三階フロア奥にある「揉み課」のドアを叩いた。
最初このプレートを見た時は「なんですかこれ」と思わず笑ってしまったものだ。
「はいはい」
扉の奥から田中さんの声がして、僕たちは「失礼します」と言って揉み課の中に入った。
田中さんはいつものバスローブ姿でそこに立っていた。
「厄介な案件?」
飄々とそう聞く田中さんに「ちょっと営業の企画でご相談したく」と伊藤先輩が手を洗いながら言った。
「はいよ」
と返事をした田中さんが施術台の上でうつ伏せになる。
僕も伊藤先輩と同じく手を洗って田中さんの左側に回り込んだ。
「僕、足やります」
「じゃあ俺は肩から」
伊藤先輩とそう打ち合わせして、さっそく”揉み”に入る。
「おぉ、いいね。伊藤くんもうまくなったなぁ」
「ははは、練習したんすよ」
「最初の頃は力が強すぎてさ、揉み返しがひどかったんだから」
「すんません」
そんな二人の会話を聞きながら、初めてここに来た時のことを思い出す。
「この話……少し揉むか」
その日も課長がそう言ったので、僕は”もう少しこの話を検討する”という意味なのだろうな、と思った。
「おう、おまえは初めてだったな。行くぞ」
伊藤先輩にそう言われて、僕は初めて”揉み課”に向かった。
「え、なんですかこれ」
と驚いている僕に、伊藤先輩は「揉み課」と”田中さん”についての話をした。
僕の勤める会社には「揉み課」という特命の課が存在する。
そこには田中さんと、もう一人女性の時任さんという女性社員が在籍している。
この二人は会社の中でもエキスパート中のエキスパートで、かつては会社の指揮を取る頭脳として活躍していたらしい。
そして今では「揉み課」の社員として、仕事で煮詰まった社員たちの相談に乗っている。
人間の頭というのは根を詰めて考え続けている時よりもリラックスしている時の方がアイデアを閃きやすいらしく、揉み課の田中さんと時任さんは社員たちの悩みを聞きながらマッサージを受ける。
そして閃いたアイデアを社員に授けてくれるのだ。
なんともおかしな課があるものだと最初は思ったものだが、田中さんに相談してみると本当にズバリというアイデアを授けてくれるので、僕もこの「揉み課」の重要性を知ったのだった。
「ふぅむ、B社さんも今は苦しいからね」
と田中さんは言った。
田中さんはもうだいぶ前からこの会社にいるので、会社や業界について僕や伊藤先輩の何倍も精通している。
「そうなんですよね。ですからかなりのコスト減で企画の提案が欲しいと」
「ふぅむ」
そう唸る田中さんの思考を邪魔しないように、できるだけ優しくふくらはぎを揉み解していく。
マッサージがうまくいけばいくほど田中さんの頭脳は活性化し、良いアイデアが出やすい。
僕も伊藤先輩にならってマッサージはかなり練習した。
田中さんはとても清潔で頼れるジェントルマンという感じだから、マッサージするのにはまったく抵抗はない。
噂では女子社員が揉む時任さんもかなりお年を召していながら”美魔女”と評されるほどの美貌の持ち主で、若い女性社員の中には時任さんファンも多いらしい。
伊藤先輩が肩から背中のマッサージに移ったので、僕も足裏のマッサージに移行する。
「課長はなんて言ってるの?」
「課長はコンセプトの大幅変更を考えているみたいですが、とはいえまずは田中さん頼りというところだそうで」
「まったく、仕方ないな彼も」
田中さんはそう言ってふふっと笑った。
「それじゃあ、まずはコンセプトのテコ入れだな。ブランドイメージを損なわない為にも、まず……」
僕たちのマッサージを受けた田中さんは猛烈にアイデアを出し始めた。
ここの会話は録音してあるので、あとで文字起こしをして課長と打ち合わせをすればいい。
僕と伊藤先輩は田中さんの頭がフル回転するようにマッサージにより一層専念した。
「ありがとうございました!」
僕と伊藤先輩は田中さんにお礼を言って揉み課を後にした。
「頑張ってね」
と笑う田中さんは今日これからもきっと何人もの社員の相談に乗ることだろう。
三階から自フロアへの階段を降りながら、僕は伊藤先輩に言った。
「やっぱり田中さんはすごいですね」
「だな」
「僕も田中さんみたいになりたいです」
「大きく出たな。でも田中さんだってな、揉んでるんだぞ」
「揉んでる? 田中さんも誰かを揉んでるんですか」
「違うよ。田中さんのところには俺たちみたいにたくさんの社員が相談にやってくる。時には社長だってやってくる。だから常にこの会社の全体像を把握し、業界情勢、果ては世界情勢にも気を配らなければならない」
「はい」
「この会社がどうなっていけばいいか。社員一人一人にどんな風にアドバイスをしたらいいか。そんな重責を背負いながら田中さんは日々気を揉んでいるのさ」
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