涙コロン

ショートショート作品
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 自分が人とは違うことに気づいたのは幼稚園に入った時だった。

 初めて家以外の場所で知らない人たちに囲まれて過ごすことになった私は心細さにいつも泣いていた。

 そして私が泣くと、男の子がはやし立てるのだ。

「くっせーんだよ。おまえが泣くと」

男の子たちはそう言って鼻をつまむ。

 私の涙は桃の匂いがすると教えてくれたのは一番仲が良かったルリちゃんだった。

「結奈ちゃんが泣くと甘い匂いがするんだよ」

ルリちゃんはそう言った。

 私は母に自分の涙のことを聞いてみた。

 すると母は「何もおかしなことじゃないのよ。結奈の涙は運命の人と出会う為にそんな素敵な匂いがするんだから」と言った。

 そんなことを聞いても私は、みんなと違うことが嫌で嫌で仕方なかった。

 おまけに幼い頃の私はすごく泣き虫で、みんなの前で涙を流しては、はやし立てられるのだった。

 そんな私の涙に対するまわりの反応が変わってきたのは、小学校高学年の頃だった。

 それまでは私が泣いてしまうとかばってくれていた女の子が「嫌な匂い」と私の涙を嫌悪し、逆に男の子は私が泣くと顔を赤らめながら私のことを見るのだ。

 私の涙は桃の匂いには違いなかったが、同性である女の子には嫌な匂いに感じられ、異性である男の子には一種のフェロモンのような作用をすることを知った。

 私が涙を流すと女の子たちは一様に顔をしかめる。

 だから私は小学校を卒業して中学校に上がるのを機に、涙を封印した。

 訓練したのだ。

 何事にも動じないように、怖気付かないように。

「キャラが変わった」

そんな風に小学校のクラスメイトに揶揄されても私は変わるのをやめなかった。

 人によっては、もし私と同じ体質だったらこの涙を利用して男の子に媚を売ろうなんて考える人もいたかもしれないけど、私は御免だった。

 だから私は中学校の卒業式でも高校の卒業式でも、わんわんと泣くクラスメイトを横目に涼しい顔をして過ごした。

 それから大学を卒業して、私は会社員になった。

 会社員としての日々は私にとって過ごしやすいものだった。

 当たり前だけれど、会社には学校にあったどこか甘ったるい雰囲気はない。

 会社で涙を流す人なんて滅多にいない。

 だから私の体質に気がつく人もいない。

 しかし、入社して三年目、ようやく色々な仕事を一人前に任せてもらえるようになったある日、私は失態を犯してしまった。

 上司の命令で発注をかけた商品の個口数が間違っていたらしい。

 私は何度も数を確認して発注をかけたはずなのに、他部署からクレームが入った。

 おかしいなと思って確認をすると、そもそも上司の命令が間違っていたことに気がついた。

 私の失態とは、個口数を間違えたことではない。

 上司が自分の失敗を棚に上げて、部署全体に響き渡るような大声で私を叱責した時に、泣きそうになってしまったことだ。

 これまでとはまったく別角度からこみ上げてくる感情。怒り。

 私の言うことなどまったく聞こうとしない上司。

 あまりの理不尽さに私の頭には血が上り、怒鳴り声の代わりに涙がにじんできた。

「失礼します」

私はそう言って自席を後にした。

 トイレに逃げ込もうかと思ったが、トイレでは誰かが来る可能性がある。

 私は屋上に向かった。

 会社の屋上で、私は転落防止の柵を思い切り掴みながら声を押し殺して泣いた。

 泣くのは一体いつぶりだろう。

 悲しいとか寂しいとか、そういう気持ち以外で泣いたのは初めてかもしれない。

 悔しい。自分の潔白を強く主張できない自分が情けない。

 そんな感情で涙が溢れてくる。

「結奈」

背中側から声をかけられて私が振り向くと、そこに久瀬先輩が立っていた。

 私が入社して初めて配属になった部署で直属の先輩として私の面倒を見てくれた先輩であり、私が一番あこがれている女子社員だった。

「ほら、飲みな」

久瀬先輩がそう言って温かい缶コーヒーを渡してくれる。

 私はそれを受け取って、でも久瀬先輩から顔を背けた。

 知られたくない、この人だけには。

 私のおかしな体質のこと。

「いい匂い。ミントだね」

缶コーヒーを開けながら久瀬先輩が言った。

「え?」

「結奈ってさ、いい匂いがする。前にさ、成瀬さんの送別会やったじゃない?」

 私と久瀬先輩が同じ部署にいた頃、温和で優しかった成瀬さんが定年退職でお辞めになると聞いて、私と久瀬先輩が幹事をした送別会のことだ。

「その時さ、結奈が泣いてるの、私見ちゃって。それで、その時良い匂いがしてきたんだよね。だから、あぁ、私と一緒だなぁ〜って」

「え?」

「私もね、泣くと、匂いがするの。この匂い」

久瀬先輩が缶コーヒーを持ち上げる。

「あの野郎、むかついたからあんたの代わりに怒鳴りつけてきてやったよ。あぁ、ったく」

久瀬先輩が目元にじんわり浮かんだ涙をスーツの袖でぬぐっている。

 私は色々なことで頭がいっぱいだったけれど、その時思ったことだけを言った。

「コーヒーの……匂いじゃないです」

「ん?」

「柑橘系の……爽やかな香り。蜜柑みたいな」

「えぇ、嘘でしょ?」

久瀬先輩がそう言って笑う。

 私だって、ミントみたいな匂いなんて言われたのは初めてだ。

 それも、女性に。

 久瀬先輩は、昔から涙を流すと「苦い匂いがする」と言われてきたらしい。

 そしてそれがコーヒーの香りだと分かると、いつも缶コーヒーを飲むようになったのだそうだ。

 もし泣いても、それがバレないように。

「じゃあ、私は桃を持ち歩こうかな」

私がそんな軽口を叩くと、久瀬先輩が「それはいい」と笑った。

 そんなことがあってから、私と久瀬先輩は以前よりもずっと仲良しになった。

 私たちはお互いに他の人とは違う匂いを感じる。

 ずっと昔にお母さんが言っていた”運命の人”というのは久瀬先輩のことだったのだろうか。

 そんな久瀬先輩が、今日、誰よりも美しい人になって高砂に座っている。

「私、泣かないから」

そんな風に豪語していた久瀬先輩の為に、旦那さんは披露宴のウェルカムドリンクをコーヒーにしたらしい。

 優しい人だ。

 久瀬先輩は宣言通り、にこやかな笑顔を会場に集まった人々に振りまいていた。

 久瀬先輩が泣かないというのだから、私が泣くわけにはいかないと、私も会社の人たちと談笑をしながら笑顔で久瀬先輩を祝福した。

 だけど。

 披露宴の最後、旦那さんの腕に捕まって久瀬先輩が高砂からこちらにやってきた時だった。

 久瀬先輩は私と目が合うと、私にだけ分かるように、にこっと笑ってくれた。

 あ、やばいなと思った私は笑顔を返して久瀬先輩たちがテーブルを通りすぎた後にハンカチを取り出した。

(あぁ、まったくもう)

 匂いがバレないように。先輩の晴れ姿を邪魔しないように。

 そう思いながらハンカチを目に押し当てた。

 と、その時だった。

 久瀬先輩が通り過ぎていった後、私の背中の方から、ほのかに蜜柑の香りが漂ってきた。

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