「それでは皆さんにはこれからキャリアアップルを植えていただきます」
新卒で入社した会社で人事部の田中さんに突然そんなことを言われた。
新人研修が終わって、これからいよいよ仮配属先での仕事が始まるぞ、という時期にである。
(キャリアアップル? キャリアアップの言い間違いだろうか)
そんな僕の疑問を田中さんは先回りして答えてくれた。
「うちの会社では社員がりんごの木を植える風習があります。りんごの木といっても、本物のりんごの木ではなく独自開発したごく小さなものですが」
そう言って田中さんは一本の苗を見せた。
それがその小さいりんごの木の苗なのだという。
「皆さんの手でこれを植木鉢に植えていただきます。このりんごの木には水やりやその他の世話が必要ありません。勝手にりんごの実がなっていきます。しかしりんごを育てる大切な工程を一つだけ皆さんにやっていただきます。それは”剪定”です」
「剪定?」
思わず声に出して聞いてしまった。
「そうです。りんごを育てる時には、より良いりんごの実を育てる為に不要な枝を切り離す剪定という作業をします。そうすることで実に日光が当たりやすくなって良いりんごの実が取れるというわけですね」
田中さんはそう言って僕たちを人事部エリアの奥にある部屋に案内した。
そこには鍵付きのロッカーがたくさん設置されていた。
「ここには各社員が植えたりんごの木が保管されています。このりんごの木はそれぞれ植えた社員の仕事ぶりによって枝が勝手に剪定されていきます」
田中さんが僕たちの顔を一人一人見ながら言った。
「これから皆さんは長い時間をかけてキャリアを築いていくわけですが、中には自分には合わない仕事もたくさんあるでしょう。そういった苦手な仕事を切り、自分の得意分野を伸ばしていくことをこの会社では推奨しています。皆さんが色々な仕事に触れていくことで、今日、これから植えるりんごの木の枝が剪定されて、その結果立派な実をつけるのです。その枝の剪定過程、実の種類などを私たち人事部の人間がチェックして、皆さんの配属先を決定します」
田中さんはそう言いながら僕たちにそれぞれ一本ずつりんごの木の苗を渡した。
「土や植木鉢はすでに用意してありますので、それぞれ苗を植えてください」
さっきまで名刺交換の方法なんかを習っていたのに、一変して今は園芸に勤しんでいるなんて不思議な気持ちだ。
僕たちがそれぞれの苗を植えると田中さんは頷きながら言った。
「これで研修過程は全て終了です。これから皆さんには仮配属先に所属していただきますが、その前に一つだけ私からお伝えします。”できない人間”は存在しません。仕事や配属先に合う、合わないが存在するだけです。だから皆さんも自分ができない人間になることなど恐れずに、思い切り自分の力を発揮していただければと思います」
田中さんはそう言うと「ではこれは預かります」と言ってそれぞれの苗が植えられた植木鉢をロッカーに保管した。
自分の苗の様子が気になる場合は本人のみ、その苗の成長具合をチェックすることができるらしい。
そんな日から数ヶ月の時が経ち、僕はものすごく焦っていた。
同期入社のみんなはそれぞれ順番に人事部から呼び出しを受け、自分のりんごの実を受け取り、本配属先が決まっていた。
つまり彼ら彼女らは仮配属先で仕事をする中でりんごの木の剪定を行って、見事、実をつけることに成功したというわけだ。
自分で植えた苗からなった実を嬉しそうに頬張る同期を笑顔で祝福しながら、僕はとても焦っていた。
同期は全員本配属先が決まったのに、僕だけが決まらない。
僕だけが人事部からの呼び出しを受けることなく、もう一ヶ月以上が経過している。
仮配属先の先輩に相談したら「焦るな」と言われたけれど、焦るに決まっている。
僕は人事部の田中さんに内線をかけた。
「あの……青木です」
「やぁ青木くん。元気にやってる?」
「あ、はい。あの、田中さん。僕の苗を見ることってできますか」
「あぁ。もちろんだよ。いつでもおいで」
「じゃあ、今から行ってもいいですか」
「大丈夫だよ」
内線を切った僕はそのまま人事部へ向かった。
「やぁ来たね」
田中さんはそう言って笑顔で僕を迎えてくれた。
「さっそく行こうか」
と歩き出す田中さんのあとをついていく。
田中さんが僕を振り返って言う。
「だいぶ焦ってるみたいだね?」
「……はい。正直」
「大丈夫だよ。僕から見ても、君は他の子たちと同じように優秀だ」
「そうでしょうか」
「あぁ。……さて」
ロッカーの前に着くと、田中さんは鍵をロッカーに挿し込んだ。
「どんな風になっているかな。もう何ヶ月も経っているからね」
「人事部の人は定期的に中を確認するんじゃないんですか?」
「しないよ。私たちが観察しすぎることで剪定を邪魔しちゃいけないしね。実がなった時だけ知らせが来るようになってるんだ」
「そうなんですね」
てっきり定期的にチェックされているのだと思った。
「じゃあ開けるよ」
「はい」
田中さんがロッカーの鍵を開ける。
キィっと音がして扉が開いた。
中に、数ヶ月前僕が植えたりんごの木があった。
苗はすっかり立派な木と呼べるような外見に成長している。
がっちりとした幹や鮮やかな葉。
だが……。
「実が、ない」
僕は思わず泣きそうな声でそう言ってしまった。
僕が植えたりんごの木には実がなっていなかった。
ただの一つも。
実になる気配のつぼみすら見当たらない。
僕は愕然とした。
そんな。
僕は同期のみんなと比べて、こんなに劣っている存在だったのか。
他のみんなはあんなに美味しそうな実をもらっていたのに。
赤や黄、青、色の違いこそあれ、あんなに立派な実を頬張っていたのに。
僕には何もないのだろうか。
「これは……」
隣の田中さんも神妙な表情でりんごの木を見つめている。
僕はまた泣きそうになってしまう。
僕はこの会社にいてはいけない人間なのだろうか。
田中さんが慌てた様子で内線をかけている。
「あ、田中です。部長、保管庫に来ていただけますか」
なぜ部長を呼ぶのだろうか。
「あの……あの。僕、クビでしょうか」
震える声でそんなことを聞いてしまう。
田中さんが何か言おうとした瞬間、部長がやってきた。
「どうした?」
「あ、部長。これ見てください」
田中さんが僕のりんごの木を指し示す。
「ほう。これは誰の?」
「この青木くんのです」
「ほぉ……これはすごい」
「ですよね!?」
田中さんが興奮したような声で言う。
すごい? なにがだろう。
「青木くん」
部長がこちらを振り向いて言った。
「君にはすごい才能があるようだ」
「え?」
「さっきの質問への答えだけどね」
田中さんが言う。
「クビだなんてとんでもない。君は逸材なんだよ。百人に一人いるかいないかの、ね」
「えぇ?」
「これを植えた時はまさかそんな子がいると思わなかったから説明を省いたんだけどね。中には君みたいに実がならない子もいるんだ」
「実がならないっていうのは……何も才能がないということなんじゃないですか」
「とんでもない。これを見てみなさい」
田中さんがそう言って僕のりんごの木の幹を指差す。
「立派だろう? ここまで立派な木になる子はそうそういないんだ。いいかい?」
田中さんは興奮したように続ける。
「会社は大きな木のようなものだ。その花形となる部署は言うなれば花や果実のようなもの。しかしそんな花や実も、この幹がなければ絶対に育たないんだ。会社の幹となる存在。それは僕たち人事や総務といった裏方の仕事さ。君はその才能がある。それも、とてつもなく、ね」
「そう……なんですか」
「あぁ。なかなか適性のある子はいないんだよ」
そう興奮する田中さんの横で、部長が僕に手を差し出した。
「歓迎するよ青木くん。ようこそ総務人事部へ」
そんな出来事からまた長い時が流れた。
自分には何もないのかもしれないと絶望したあの日が、もう遠い昔のようである。
僕は、まだ未知の可能性を秘めた新入社員の顔を一人一人見つめながら言った。
「”できない人間”は存在しません。仕事や配属先に合う、合わないが存在するだけです。だから皆さんも自分ができない人間になることなど恐れずに、思い切り自分の力を発揮していただければと思います」
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