その日は天気の良い日で星もきれいに見えた。
俺はベランダに設置した天体望遠鏡を覗いてしばらく美しい星々に見惚れていたのだが、ふと視界の隅に何か映ったような気がして接眼レンズから目を離した。
「ん……?」
俺はマンションの側を流れる川の方に目を向けた。
川はいつものように穏やかで、河川敷も静まり返っていた。
と、遠くの対岸に何かが立っているのを見つけた。
それは暗闇の中でぼんやりとそこにあり、じっと動かなかった。
俺は好奇心に駆られて低倍率の望遠鏡を取り出し、それに向かって望遠鏡を構えて覗いた。
一瞬、びくっと望遠鏡から目を離してしまう。
望遠鏡の先に女が立っていた。
淡い水色のワンピースに身を包んだ女はなんとなくこちらを見ているような気がした。
俺はもう一度望遠鏡を覗いた。
すると今度ははっきり女の姿が見えた。
女はこちらを見ているようだった。
頭が微かに動いていて、どうやら何かを言っているらしい。
俺はもう少し倍率の高い望遠鏡に切り替えて改めて女を見た。
やはり女は何か言っていた。しかし川を隔てたこちら側には当然言葉は届かない。
「もしかして俺に言っているのか……?」
思わず俺はそうつぶやいた。
女が口を開いて何か言っているのは分かるのだが、内容が分からない。
俺はしばらく女から目が離せなかった。
その女は目鼻立ちのはっきりした美人で、正直に言ってしまえば俺は星と同じかそれ以上に彼女に身惚れてしまった。
女は一生懸命何かを言っているように見えるが、やはり、何を言っているのかは分からない。
俺はしばらく望遠鏡を覗いていたが、風が強くなり少し冷えてきたので、部屋に戻ることにした。
窓を開けて中に入る時に振り返ると、肉眼でもぼんやりとした水色を確認することができた。
次の日、俺がまた同じように星を眺めようとベランダに出ると、河川敷の向こうに昨日と同じ水色が見えた。
ドキリとした俺は昨日と同じ望遠鏡を構えた。
すると昨日と同じ女が同じ服装でそこに立っていた。
俺はさすがに空恐ろしくなったが、その美しい女が一体なんと言っているのかが気になった。
女はこちらを向いてゆっくりと一言一言、何かを言っている。
「なんだ……?」
俺はもうその日星を見ることはせず、女のことを見つめ、一体どうしたら彼女の言っていることを知ることができるかを考えた。
部屋を出て河川敷の向こうに行ってみるか。
いや、それは少し、恐ろしい気もする。
だが直接声をかければあの綺麗な女性と知り合いになれるかもしれない。
そんな風に思い悩んでいる間もずっと彼女は河川敷に立っていて、それは二日経っても三日経っても続いた。
俺はとりあえず彼女が何を言っているのか知ろうと思い読唇術を学んでみることにした。
読唇術とは唇の動きから相手の言っている言葉を知る技術である。
書物や解説動画などを駆使して、俺はなんとか初歩の読唇術を身に着けた。
普通の速度で話す人間の言葉を読むことはまだできないが、彼女のようにゆっくりと話している内容ならば読むこともできるだろう。
俺は夜を待った。
その日も俺がベランダに出ると河川敷の向こうに淡い水色が見えた。
俺はさっそく望遠鏡を構えた。
女の美しい顔が鮮明に見え、いつものようにゆっくりと何かを言っている。
俺は彼女の唇を追い、学んだ読唇術を駆使して彼女の言葉を読み取った。
と
な
り
の
へ
や
で
ひ
と
が
し
ん
で
ま
す
よ
俺はビクッと体を震わせて望遠鏡から目を離した。
彼女の唇から読み取った言葉を反芻する。
俺の部屋は角部屋なので隣室は一つしかない。
そこには女が一人住んでいたはずだ。
いや、その女はもう引っ越して男が住んでいたのだったか……。
いずれにせよ、俺は隣人の姿をもう長い間見ていない。
思わずその場でじっと耳を澄ました。
壁が薄い部屋ではないが、それでも必要以上に静まり返っているように感じられる。
俺はスマホを取り出して管理人の電話番号を呼び出した。
呼び出し音を聞きながら震える手でもう一度望遠鏡を構えると、そこにもう女の姿はなかった。
コメント