物忘れ草

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 世界中で人々が一斉にくしゃみをし始めた。

 その原因が、ある植物の花粉であることが後に判明する。

 つまり新種の植物による花粉症だったわけだが、なぜ原因の特定に時間がかかったのか。

 その理由は二つ。

 まず一つは、人々がそれを単なる花粉症、もしくは風邪のせいだと感じていたからである。

 花粉症は辛い疾患ではあるが命に別状はない。

 だからそれほど重く考える人間がいなかったのも無理はないだろう。

 そしてもう一つの理由。

 それがこの新種の花粉症の原因が特定され、その対策が打たれるまでの時間が長かった理由である。

 新種の花粉症。

 その原因となる花粉を放出する植物は後に「物忘れ草」と名前がつけられ恐れられることになる。

 この物忘れ草の花粉が鼻の粘膜に付着すると人間の体はくしゃみをすることで花粉を体外に排出しようとする。

 花粉はくしゃみである程度排出されるが、その際花粉は人間からあるものを奪っていく。

 それは「記憶」だ。

 物忘れ草の花粉は鼻の粘膜に付着した瞬間、急速に根が成長し、一時的にそれは人間の脳まで到達する。

 そして人間の記憶を司る海馬や大脳皮質を侵す。

 その花粉が排出される際に根も除去されるのだが、その際に人間の脳に格納されている記憶が破損する。

 一回のくしゃみにつき過去一日分の記憶が失われる。

 つまり一度くしゃみをしてしまうと、昨日の出来事を完全に忘れてしまうのだ。

 さらにもう一度くしゃみをするとその前の日、つまり二日前の記憶も消去される。

 この性質により、人々の間で物忘れによる大混乱が起きた。

 そしてこの花粉症に関する研究をする研究機関の人間もその例外ではなかったのである。

 物忘れ草の花粉を吸い込み、くしゃみをすると昨日の研究を忘れる。

 もちろんデータは残っているのだが、その実証を再度行う必要があったりと研究が遅々として進まなかったのである。

 しかし徐々にではあるが研究は進み、ついに人々はその原因となる植物が物忘れ草であることにたどり着いた。

 この未曾有の災害を引き起こした物忘れ草は全世界的に特定厄災植物に指定され、速やかに除去が行われた。

 見つけ次第焼き払われた物忘れ草は数を減らしていき、年を越して生き残った物忘れ草も除去された。

 原因の特定までに一年、そして物忘れ草の完全除去までに二年。

 三年にも渡り人々を苦しめた新種の植物、物忘れ草は地球上からその姿を消した。

 いや、消したかに思われた。

 どのような時代、どのような場所にも人々の願いに相反する者というのは現れる。

 その人物は特定厄災植物に指定された物忘れ草を密かに栽培していたのである。

 地下室で栽培していた物忘れ草を、人々がその脅威を忘れた頃に世に放つ計画。

 その人物は世界から物忘れ草の脅威が去ったと報道されてから一年後、地下で大量に栽培された物忘れ草を散布する計画を実行に移そうと考えた。

 しかしその時、人類にとって最大の幸運が訪れる。

 その人物の住む住居を襲った停電により、常時稼働していた空気清浄システムが停止。

 物忘れ草の花粉が排気口などを通じてその人物の生活スペースまで到達した。

 その人物は猛烈な花粉症状に苦しんだ。

 くしゃみを一回、五回、十回。

 息をするのも困難なほどくしゃみをし続けたその人物は、停電が終わり空気清浄システムが稼働し始めた頃にはきょとんとした顔でそこに立っていた。

 自分はなぜそこに立っているのか。ここはどこなのか。自分は一体誰なのか。

 何ひとつ思い出せないその人物は、自分を探す旅に出てしまった。

 こうして世界は未曾有の災害の第二波を逃れることができた。

 しかし未来は分からない。

 その地下室は今も、人類にとっての厄災の箱として誰かがその蓋を開けるのを待っているのである。

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