流浪旅館の代金

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 この世のどこかに「流浪旅館」と呼ばれる幻の旅館があるらしい。

 流浪旅館は一生に一度しか泊まれない旅館である。

 ゆえに、かどうかは定かではないが、旅館マニアの間では「最上の旅館」と評されることもある。

 そんな流浪旅館、確かに存在するらしいのだが、問題はどこに現れるのか分からない点だ。

 流浪旅館の所在地は謎に包まれている。

 ふいに都市部に現れたかと思ったら、離島に現れたとの噂も聞いた。

 そんな流浪旅館の次の所在地を、僕はなんとか突き止めた。

 旅館マニアとしては一度でいいから流浪旅館に泊まってみたいと思った僕は今までの人脈や情報源を駆使して流浪旅館の情報に到達したのである。

 
 僕は情報の通りに山の中に入った。

 今回、流浪旅館は山奥にある湖のほとりに現れるらしい。

 その湖は地元の人間でもほとんど訪れないほどの山奥に位置していた。

 僕は草木をかき分け、山の中を進んだ。

 途中、霧が出てきた。

 通常の登山であれば進行が危ぶまれるほど濃い霧だ。

 しかし僕はどうしても今日、この霧を抜けなければならなかった。

 今日を逃せば次はないかもしれない。

 僕は決死の覚悟で霧の中を進んだ。

 すると、霧の中に浮かぶように流浪旅館が現れた。

 流浪旅館の外見は今まで見たどの旅館よりも立派だった。

 そして流浪旅館の前に立った僕は今更になってあることに気がついた。

 そう言えば、流浪旅館の宿泊料金はいくらなのだろうか……。

 不思議と流浪旅館の宿泊料金についての情報を耳にすることはなかった。

 しかし僕は、今更そんなことで引き返せるか、と流浪旅館に足を踏み入れた。

「ようこそおいでくださいました」

 流浪旅館に入ると、女将さんらしき女性が深々とお辞儀をした。

 僕は思わず息を呑んだ。

 それほど美しい女将さんだった。

「ご宿泊でよろしいでしょうか?」

「あ……はい」

 僕がやっとそう答えると女将さんは僕を中へ促した。

 チェックインなどは必要ないらしく、すぐに部屋に案内される。

 そこまでに見たところ、流浪旅館には女将さん以外にも当然従業員がいるようだが、なんだかその姿はぼんやりと霧がかったように見えて実体が掴めなかった。

「ゆっくりとおくつろぎください」

 女将さんがそう言って去っていく。

 思わずその後姿を目で追った。

 女将さんが廊下の向こうへ消えて、ようやく僕は部屋の中に入った。

 部屋には一つずつ温泉がついており、僕はさっそく湯に身を沈めた。

 山中を歩いてきた疲れが極上の湯に浄化されていく。

 温泉から上がると、これまた極上の料理が待っていた。

 海の幸から山の幸、どれも一級品の食事に僕は舌鼓を打った。

 食事を終えた僕は、旅館の中を少し探索してみようかと思い立った。

 しかし廊下に出て少し進んだところで廊下の端がぼんやりと霞んで、このままでは迷ってしまいそうだと思った。

 慌てて僕は踵を返して部屋に戻ろうと思ったのだが、数歩先にあるはずの自分の部屋までもたどり着けない。

 温泉に入ってさっぱりしたはずの体に冷や汗がつたう。

「どうかなさいましたか?」

 いつの間にか後ろに女将さんが立っていた。

 その思わず目を背けたくなるほどの美しい瞳で僕の顔を覗き込んでくる。

「あ……すみません。部屋が分からなくなってしまって」

 僕がそう答えると女将さんはにこりと微笑んで僕を部屋まで案内した。

 不思議なことに女将さんに先導してもらうとすぐに部屋についた。

「どうぞ、こちらです」

 女将さんが指し示した部屋に入ると、すでに布団が敷かれていた。

「それでは」と去っていこうとする女将さんを呼び止める。

 静かな夜を前に僕は女将さんに言った。

「大変、素敵なお宿でした」

 どうしても今、言わなくてはならないと思った。

 女将さんは先程と同じような微笑を浮かべて廊下の向こうへ去っていった。

 女将さんの残した残り香に、しばらく呆然とする。

 僕は汗ではりついた浴衣を脱いでもう一度温泉に浸かった。

 温泉から出ると布団の上に新しい浴衣が置いてあった。

 山歩きの疲れもあり、僕は布団の中に入るとすぐに眠りに落ちた。

 
 翌朝。

 目覚めるとそこに布団はなかった。

 僕は柔らかな葉の上にその身を横たえていた。

 状況だけ見たら、狸の仕業とも言える。

 しかしあれは狸などではなかったと思う。

 何故かそう確信している。

 流浪旅館で僕は金銭としての代金は支払わなかった。

 しかし僕はきちんとその代償を払った。

 代償とは、金ではない。

 金の代わりにあるものを奪われた。

 たった一晩にして失ったのだ。

 僕は二度と会うことのできぬ女将さんの姿を思い出した。

「大変、素敵なお宿でした」

 僕がそう言った時の女将さんの笑顔が目に焼き付いて離れない。

 僕はもう、他の女性を愛することはできないだろうと思いながら、山を下りた。

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