ある山の峠に茶屋があった。
その茶屋はいつも客で賑わっていた。
その理由は看板娘である。
看板娘には愛嬌があった。
看板娘は茶菓子を運ぶ際、「一番のお客さん、お団子おまちどぉ」などと言って顔をぐいと客に近づける。
娘は極度の近眼なのだ。
そのくせ眼鏡を嫌がっていたので、必然客の顔を見るために自らの顔を近づけることになる。
その所作が男の客を引き寄せていたのであろう。
茶屋の”四番”と呼ばれている席にも横目で看板娘を盗み見ている若者がいた。
彼もまた娘のことが気になっていたのだが、奥手なので声をかけられない。
他の客が大した用もないのに娘を呼ぶ中、彼だけがうつむいて羊羹をつまんでいた。
彼が奥手なのには理由がある。
彼は自分の容姿に自信がないのだ。
それは自覚だけではなく、周りの者も認める事実なのである。
ある日、彼が山道を歩いていると前から茶屋の看板娘が歩いてきた。
彼は娘に気づかれないよう道いっぱいに離れて通り過ぎようとした。
しかし娘の前に大きめの石があることに彼は気づいた。
あの様子では近眼の茶屋娘はあの石に躓いてしまう。
彼は娘に手を差し伸べようか迷った。
彼が逡巡しているうちに、娘の履物が石に触れ、娘がよろめいた。
彼は慌てて娘に手を伸ばし、娘を支えた。
「あぁ、ありがとうございます」
娘がそう礼を言うと、彼は何も答えずに去ろうとした。
すると娘が彼に向かってこう言った。
「もしかして、四番さん?」
彼は驚いた。
どうして自分だと分かったのか?
「やっぱり、四番さんですね。匂いで分かったんです。私、目は悪い分、鼻が利くんです。四番の席からはいつも良い匂いがするから」
普段滅多に口を開かない男が茶屋以外の場所だからか、口を開いた。
「僕は逆です。鼻があまり利かない。だから自分の匂いはよう分からんのです」
そんなことがあってから、いつも四番に座る彼と茶屋の看板娘はたまに言葉を交わすようになった。
そしてある日、彼は娘に「店の裏でお話できませんか」と声をかけられた。
訳も分からず店の裏に向かった彼は娘の口からその好意を伝えられ、驚いた。
どうして自分なのか?
ぐいっと娘の顔が彼に近づく。
娘は彼のことをじっと見つめながら言った。
「匂いです。心地よい匂いの人は少ないんです」
言ってから顔を赤らめる娘。
それを見てもまだ彼は信じられないような顔をしていた。
どうやら彼は、知覚としての嗅覚だけではなく、あらゆることに鼻が利かないようである。
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