もう長いこと絵を描いていない。
かつて画家として生計を立てていた私は今や老齢年金をもらって細々と暮らす、どこにでもいる老人である。
人里離れた山の中で私は、毎日ただ過ぎる時の中に身を横たえていた。
あるうだるような夏の日。
突然、どこからか「気合い入れろー!」という大きな声が聞こえてきた。
なんだ?
こんな山奥で人の声がすることは稀である。
人を嫌って移り住んだこの家は、よほどのことがない限り人の声がしないのだ。
と、家の周りを歩いた私は長年使っていない井戸の方から声がすることに気がついた。
落ち葉の降り積もった井戸の蓋をあけてみる。
すると中から「声出せー!」「おー!」なんていう威勢のいい声が聞こえてきた。
一体どうなっているのか?
井戸から聞こえるやかましい声に、私はつい「うるさい!」と怒鳴った。
すると声が止んだ。
私は井戸の蓋を閉めてから家の中に戻った。
しかし次の日も、また声は聞こえてきた。
「準備運動始めー!」
「おー!」
その声は、どうやら何かの部活をやっているような声だった。
何の部活かは声だけではよく分からない。
私はまた井戸の蓋をあけて「うるさい!」と怒鳴りつけた。
すると、井戸の中から「ごめんなさい」と声が聞こえて、小さな小さな掛け声がするようになった。
なんだか途端に気の毒になった私は「……昼間ならええ。夜はやるな」と井戸の中に言った。
「はい! ありがとうございます!」
井戸の中からそんな威勢のいい返事が返ってきて、気がつくと私は井戸の側に座ってその声を聞くようになった。
聞こえる声からは相変わらず何の部活か判別できないが、どうやら大会に向かって頑張って練習をしているらしい。
ある日、私は井戸の中に向かって声をかけた。
「おい、何か欲しいものはないか」
私のそんな問いかけに、井戸の中の声は「大丈夫でーす」と答えた。
う〜む、そうか。
私は大丈夫ですと言われたのに家の中をうろうろと歩き回った。
そして、そう言えば疲労回復にはレモンとはちみつがいいと聞いたことがあったなと思い、冷蔵庫からレモンを取り出した。
輪切りにしたレモンとはちみつを井戸の中に落としてみる。どうせ使っていない井戸なのだから良いだろう。
すると、井戸の中から「なんだこれ、うめー!」という喜びの声が上がった。
私はほくそ笑みながらレモンとはちみつを追加した。
ある日のこと。
その日はついにやってきた大会の日だった。
私はつい「頑張れ!」と一人井戸に向かって応援してしまう。
井戸の中からは「ありがとうございます!」と返事が返ってきた。
声の様子から察するに、今日は部員たちの調子も良いようで、順調に勝ち上がっているようだった。
そして迎えた決勝戦。
井戸の中から聞こえる掛け声が勢いを増していく。
すると、その熱気にあてられてか、井戸の中の水がボコボコと泡立ち始めた。
「頑張れ。頑張れ!」
私は声の限りをつくして応援した。
「ラスト一分! 声出せ! 一点差、逆転できるぞ」
そんな声に「頑張れ!」という声援を送る。
最後の三十秒で同点まで追いついた。
「ラスト十秒ーーー!」
残り十秒、選手たちは死力を尽くした。
どうなった……?
一瞬の静寂のあと、「やったー!」という歓喜の声が井戸の中に響き渡った。
どうやら優勝したらしい。
私は井戸の側で思わずガッツポーズをした。
と、井戸の中の水がボコボコと沸き立って、まるで間欠泉のようにぶしゃーっとお湯が吹き出てきた。
なんと井戸の中の水が温泉になっている。
「あちちちち!」
私はもろに熱湯を顔に受けた。
慌てて風呂場に走り、冷水で顔を冷やす。
タオルで顔を拭きながら、改めて選手たちにお祝いを言おうと井戸に向かった。
しかし、井戸の水はさっきの吹き上がりですっかり干上がっていた。
声も聞こえてこない。
どうしたことだろう。
私は縄梯子を使って井戸の底に降りた。
と、井戸の中ほどまで行ったところで縄梯子がブチッという音を立てて切れた。
私は井戸の底まで落ちて、しこたま体を打ちつけた。
しばらく痛みに悶てから、地上を見上げる。
「おぉい!」
そんな声を出すが、誰にも聞こえない。
これまでさんざん人払いをしてきたのだから当然だ。
まさか、私はここで死ぬのだろうか。
誰にも知られず、ひっそりと。
「……おじいさんですか?」
突然、井戸の中に声が響いた、
「え?」
「やっぱりそうだ。僕、キャプテンです。いつも応援してくれていたおじいさんですよね」
「お、おぉ」
「応援ありがとうございます。おじいさんのおかげで優勝できました」
「そうか……」
「あの……どうかしたんですか」
私はそんな問いかけに、信じてもらえないと思いつつ今の状況を話した。
すると井戸の中の声は「僕たちがなんとかします」と威勢の良い声を出した。
「え……?」
「待っていてください! おーい、みんなー! 紅白戦やるぞ!」
井戸の中の声はそう言って部員たちを集めた。
「行くぞ!」
「おー!」
そんな掛け声で紅白戦が開始される。
すると、なんと足元からじわりと水が滲み出てきた。
「み、水が出てきた」
「よし、みんなもっと気合入れろ!」
「おぉ!」
白熱する紅白戦に呼応するように、井戸の底から水がどんどん湧いてきて、またそれはお湯になった。
お湯はものすごい勢いで吹き出てきて、私の体を浮き上がらせた。
やがて私はお湯に持ち上げられて井戸から脱出できた。
「ありがとう、ありがとう!」
私は井戸の縁から中に向かって声をかけた。
しかし井戸は、また干上がっていた。
あれから、井戸の中から声が聞こえてくることはなくなった。
あの声はなんだったのだろう。正体は分からない。
井戸の中の彼らのおかげで命拾いした私は、久しぶりに筆を取ってみようと思った。
あれほど怖かったキャンバスが、今は怖くない。
あの井戸はきっと枯れていない。また夏になったら水が湧き、それはやがてお湯になるのだろう。
彼らを見習って、私も精一杯なんでもいいから描いてみようと思う。
私の創作意欲もきっと枯れてはいないのだから。
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