「おばあちゃん」
私は縁側に座っているおばあちゃんに声をかけた。
おばあちゃんはいつもこの縁側の座布団にちょこんと座っている。
そして、縁側に置いてある大きな鏡を通して、庭を見ているのだ。
「あら、みきちゃん」
「帰ってきたよ」
大学生になって家を出ていた私は、久しぶりにおばあちゃんと話をした。
「ねぇおばあちゃん、クーちゃん、いる?」
「うん、いるよ。ほら」
そう言っておばあちゃんは鏡の中に映る庭を指差した。
そこにはうちの庭が映っていて、おばあちゃんが指差す先には小さな花壇があった。
私はまだ小さい頃、おばあちゃんに「おばあちゃんはどうしていつも鏡を見ているの?」と聞いてみたことがある。
今よりかなり若かったおばあちゃんはこの鏡のことを教えてくれた。
この鏡は、おばあちゃんが知り合いからもらってきたものらしい。
鏡をくれた知り合いは「この鏡は人間用じゃないの」と言っていたそうだ。
これは「庭鏡」というもので、庭に向けて置いておく鏡なのだ、と。
鏡に映し出された庭は人間が鏡の前で身だしなみを整えるように、美しさを保つのだそうだ。
言われた通りに庭が映るように鏡を置いておくと、庭は荒れることがなかったらしい。
そしてその頃はまだ、そこには花壇がなく、代わりに犬小屋が建っていた。
私が生まれるずっと前に飼っていた”クルミ”という犬の小屋。
柴犬と何かの犬種のミックスであるクルミは、餌をくれるおばあちゃんに一番懐いていたらしい。
その頃、おばあちゃんは縁側に座っていつもクルミを見ていたそうだ。
そして、庭鏡を置いた年の冬。
その冬は強い寒波に見舞われ、例年よりかなり冷え込んだらしい。
冬に入る前からクルミは体調を崩しがちになり、そしてとうとうその冬を越すことはできなかったそうだ。
そしてクルミの小屋があった場所には花壇ができた。
おばあちゃんはクルミがいなくなった後も縁側に座って庭の方を見ていたらしい。
そして、春が来て、花壇に最初の花が咲こうかという頃、おばあちゃんはふと庭鏡の中に不思議な光景を見た。
庭鏡の中に、犬小屋が残っている。
そして小屋の中でクルミが眠っていた。
「クーちゃん」
思わず声をかけたおばあちゃんの声に気づいたように、クルミは小屋の中から出てきて一声鳴いた。
びっくりしたおばあちゃんはお母さんや他の家族を読んで庭鏡の中を指差した。
「ほら、クーちゃんがいるよ、ほら」
「……どこに?」
クルミの姿はおばあちゃん以外には見えなかったらしい。
おばあちゃんはボケていると思われるのが嫌だから、それ以上クルミのことは言わなくなったそうだ。
私にもクルミは見えない。
でも、おばあちゃんの言うことは本当だと思う。
縁側で鏡を見つめているおばあちゃんはとても幸せそうで、とても優しい顔をしているから。
「また帰っておいで」
「お盆には帰ってくるよ」
それがおばあちゃんとの最後の会話になった。
春になり、花々が芽吹き始めた頃に、おばあちゃんは天国に逝ってしまった。
お母さんから連絡を受けた私は急いで実家に戻り、慌ただしい日々を過ごした。
そして、家族全員が少し落ち着きを取り戻した頃、私は最後におばあちゃんと話をした縁側にやってきた。
おばあちゃんの庭鏡には誰かが布をかけていた。布をあげて、庭鏡に映る庭を見る。
やはりそこに犬小屋はなく、小さな花壇があるだけだった。
「おや」
春になって花が咲き始めた花壇の奥に、私は何かを見たような気がした。
クリーム色をした中型犬くらいの犬。
あれは……クルミだろうか。
クルミは嬉しそうに花壇の周りを走り回っていた。
そして、そんなクルミを見つめる人影。
あれはおばあちゃんだったのではないだろうか。
それを確かめようと庭鏡を見つめてみるが、もうおばあちゃんの影もくるみの影も見えなかった。
代わりに、クルミとおばあちゃんがいた場所には可愛い花が咲いている。
花たちは、春の風を受けて心地好さそうにその体を揺らしていた。
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