昔、近所に「催眠術のお兄さん」が住んでいた。
お兄さんは催眠術が得意で、私はお兄さんに色々な催眠術をかけてもらった。
催眠術といっても危ないものや怖いものじゃなくて、「一人でおトイレに行けるようになるよ」「保育園は怖くないよ」なんて、そんな感じの催眠術だった。
催眠術のお兄さんは催眠術をかけた後、その術を解く時に「はい、この口笛が聞こえたら催眠術が解けるよ」といつも口笛を吹いた。
「ピ〜ヒョロロ」
というなんだかおかしな音色が面白くて、私はその音を聞くと催眠術から解けるのだった。
お兄さんは私が小学校に上がってすぐの頃に引っ越してしまった。
お兄さんが引っ越すと聞いた私があんまり泣くので、お兄さんは私をあやすように「ほら、ピーマンを食べられるようにしてあげる」と言って私に催眠術をかけた。
「ほら、こうすると苦手なピーマンが食べられるようになるよ。それと、こうしたらお兄さんのことは忘れちゃうよ。バイバイだよ。もうお兄さんのことは思い出せなくなる。思い出せなくなる。ほら、もう目の前にいる人が誰か分からなくなっちゃった」
さて、そんな催眠術をかけられた私がなぜお兄さんのことを覚えているかというと、それは……。
「ピ〜ヒョロロ」
今日も、課長が自席で口笛を吹いている。
この部署に配属になって数日後、課長の口笛を聞いた私は、突然お兄さんのことを思い出したのだった。
課長はもちろん、大人になった私が誰だか分かっていないだろう。
何しろあの頃の私はまだ幼稚園とか小学校に通っていたのだ。
「課長のせいで私、またピーマンが苦手になっちゃいました」
そう言った私に、課長は「ん?」と首を傾げた。
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