水の女神様

ショートショート作品
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 ある夏の暑い日の夕方。

 庭の花壇に水を撒いていると、バケツに溜まった水がボコボコと泡立っているのを見つけた。

 なんだろう、と思いバケツを見てみる。

 特に何かが入り込んだわけでもないのに、バケツは一人でにボコボコ泡立っている。

 まるで水の中で誰かが話でもしているようだ。

 そう思った私は部屋に戻り、面白半分で片方だけの糸電話を作った。

 そして電話線代わりの糸をバケツの底に貼り付けてみる。

 糸をピンと張って紙コップの受話器を耳に当ててみた。

「あばばばばば」

 紙コップから本当に声が聞こえて、私は思わず「うわっ」と受話器を耳から離した。

 空耳か? と思ったが、紙コップからはやはり誰かの声が聞こえてくる。

 それはどうも小学生くらいの男の子の声のようだ。

「あばばばばば」という声。それは、そう、ちょうどプールやお風呂なんかで水に潜って声を出しているような、そんな感じ。

 男の子はしばらく「あばばばばば」と言ってから、ふいに「誰か聞こえますかー?」と言った。

 可愛い声に癒された私は受話器を耳から離して口に当てた。

 そして「聞こえてますよー」と返事を返してみる。

 すると男の子は「わ!」と驚きの声をあげた。

 こちらの声もあちらに届いたらしい。

「誰ですか!? 聞こえてますか!?」

 男の子がそう聞いてくれたので私は答えることにした。

「水の女神です。聞こえてますよ」

 四十路を超えて女神もないもんかと思ったが、男の子は喜んでくれたようだ。

「女神様ですか!?」

「そうですよ」

「僕、リツっていいます!」

「リツくん、こんにちは」

 そこで男の子がガバッと水から離れる音がした。

 息継ぎをしたのかもしれない。

「ハァ、ハァ。あの、水の女神様は今何してますか!?」

「花にお水をあげています」

「へぇ……僕は、お風呂に入ってます!」

 なるほど、お風呂だったのか。

 まだ夕方だけど、日中外でたくさん遊んだから、夕食前にお風呂に入っちゃいなさいなんて言われたのかな。

 私はそんな男の子の日常を想像して笑った。

 さて、次は何を言おうかと考えていた時、受話器から「コラ!」という女の人の声が聞こえた。

 「いつまで入ってるの!」

という声。どうやらお母さんのようだ。

「水の女神様と話してるの!」

「馬鹿言ってないで上がりなさい! あ〜あ、もうお湯泥んこじゃない。体ちゃんと洗わなかったでしょ!」

「洗ったよ!」

「まったくもう。ほら、シャワー浴びて!」

お母さんがそう言うのが聞こえたあと、受話器にゴボゴボという音が聞こえてきた。

 どうやら汚れたお湯を捨てるために浴槽の栓を抜いたらしい。

「あー! 女神様っ……!」

という男の子の声を最後に、糸電話の受話器からは何も聞こえなくなった。

 私は水やりの作業に戻ったけれど、バケツの水はなんとなくそのままにしておいた。

 なんだか、またボコボコと男の子が話しかけて来る気がしたのだ。

 それから数日の間、バケツには水を入れたままにしておいたのだけれど、季節は夏だしボウフラが湧いたら嫌なので私はバケツの水を捨てることにした。

 その日も快晴で、私は花壇の水やりをした後、バケツを覗き込んだ。

 もうボコボコという音は聞こえてこない。

 私は「さらば、少年」と言いながらバケツを傾けて水を地面に流した。

 地面を流れる水は太陽の光を反射し、本当に水の女神様が宿っているかのようにキラキラと輝いていた。

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