結婚をして新居を探しに来た僕と妻は、不動産屋さんが見せてくれた物件資料を見てからなんとも言えない表情で見つめ合った。
不動産屋さんはいくつも物件資料を見せてくれたのだけれど、正直どれもパッとしないのだ。
「あとは……こちら、なのですが」
不動産屋さんはそう言って、もう一つ資料を見せてくれた。
「ん!?」
その資料を見た僕は思わずそんな声をあげてしまった。
その資料に載っている物件は、それまで見てきた物件よりも家賃が格段に安いのだ。
間取りもいい。
角部屋だし、南向きだ。
資料写真を見る限り、設備も新しいようだ。
僕は「ここいいですね!」と興奮した。
しかし妻は首を傾げている。
「どうしたの? いいじゃん、ここ」
「うん、いいんだけど……」
妻はそう言ってから不動産屋さんの方を見て言った。
「あの、これ、なんですか?」
妻が物件の間取り図を指差している。
なんだろうと思い見てみると、確かに見慣れない文字があった。
「……玉?」
物件のリビングにあたる部屋の隅に”玉”と書いてあるのである。
“洗”なら洗濯機置き場だったり、”バス”ならお風呂などと意味が分かるのだが、”玉”というのは何か分からない。
「あ、はい、それですね」
不動産屋さんは聞かれてるのを分かっていた様子で答えた。
「実はここは弊社で実験的にご用意している物件でして」
「実験?」
「はい。ある家電メーカーとの共同事業なのですが……あの、もしよろしければ一度物件を実際に見ていただけませんか」
不動産屋さんにそう言われて、僕と妻は不動産屋さんの車で物件までやってきた。
中身は資料写真で見た通りほとんど新築でピカピカだった。
だが……。
「なんですか、これ」
僕はリビングの隅にあるボールのようなものを指差して言った。
真っ白い、大型犬くらいの大きさのボール。
新築同然の部屋の中で、そのボールだけが部屋の雰囲気から浮いていた。
僕の質問に不動産屋さんはまたしても聞かれるのを予想していたような口調で答えた。
「あぁ、これはですね、攪拌ボールというものです」
「攪拌ボール?」
「はい。普通はスプレー缶の中に入っているもので、スプレーの中の成分が沈殿しないようにかき回す為のものなのですが、それを部屋にも置いてみようというのが今回の共同事業の始まりでして」
何を言っているのか、よく分からない。
「このボールを置いておくことで、その部屋に住む家族間がギクシャクしそうな時にこのボールがその空気を察知し、仲を取り持ってくれるというわけです。この部屋はそのモニター用に貸し出されている部屋なのでこんなに家賃をお安くしているんですよ」
「はぁ……。あの、この部屋がモニター用の部屋だから安いというのは分かったんですけど、このボールって一体なんなんですか?」
「これは、そうですね、言うなればAIが搭載された家電というところです。このボールの持つ様々な機能が人間を癒してくれるんですよ」
「はぁ……」
説明を聞いてもなんだかよく分からない。
しかし、やはりこの家賃でこの間取り、設備は魅力的だ。
このボールだって、別にそんなに邪魔になるものじゃないし。
「ねぇ、どう思う?」
僕が妻にそう聞いてみると「なんだか面白そうだし、いいかも」と妻も乗り気なようだった。
「じゃあここに決めます」
僕は不動産屋さんにそう言って、この部屋に引っ越すことに決めた。
それから僕たちはこの部屋で長い時間を過ごした。
部屋の設備や家賃についてはものすごく満足している。
そして意外にも、この部屋に住んでよかったと思わせてくれたのは、あの奇妙な白いボールだった。
そのボールがどんな機能を持っているのかいまいち分からない状態で入居したのだが、ボールは幾度も僕たちのピンチを救ってくれた。
僕らのピンチとは、平たく言うならば夫婦の危機だ。
それまで全く違う家庭で育った二人が生活を共にするのは想像以上に大変だった。
小さなことから大きなことまですれ違いが起きる。
その度に僕たちは喧嘩をした。
それこそ、小さな喧嘩から大きな喧嘩まで。
だがその度に僕たちの仲を取り持ってくれたのが、あのボールなのであった。
ある時、僕たちが大きな喧嘩をしてしまった時、突然あのボールが輝き出した。
そしてボールはプロジェクターのような光を出し、在りし日の僕たちの姿を壁や天井に映し出した。
そこに映し出された僕たちはとても幸せそうだった。
そんな映像を見せられた僕たちはどちらからともなく謝り、元の関係に戻ることができた。
そしてある時は僕たちが喧嘩をしている間にいつの間にかボールがどこかにいなくなっていた。
ボールがないことに気づいた僕たちは、ペットとして飼っている猫がいなくなった時のように喧嘩をしていたことを忘れて一緒にボールを探した。
ボールは家具の隙間に挟まっているところを発見された。
僕が一人落ち込んでいる時に、ボールが僕好みの音楽を流して癒してくれたこともある。
そんな調子で、僕たちの周りをコロコロと転がり、ボールは僕たちの仲を取り持ってくれたのだ。
僕たちの間の空気が淀んでしまいそうになると、ボールがそれを攪拌してくれた。
そんなボールをすっかり気に入った僕たちだったが、残念ながらこの部屋を出ることになってしまった。
あの白いボールのモニター期間が終了したのだ。
僕たちの好意的なレビューもあって、あの白いボールは正式に「攪拌ボール」として売り出されることになったらしい。
その値段は高額で、今の僕たちには手が出せなさそうだ。
モニター期間が終わり、あのボールがない部屋に引っ越すことになった僕たちに不安がなかったわけではない。
あのボールなしで、僕たちはうまくやれるのか?
しかし、大丈夫だろうと思う。
なにしろ、僕たちにはこの子がいる。
まだ生まれたばかりで、玉のように可愛い、我が子が。
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