新しく引っ越すことになったアパートの大家さんに挨拶をした時のこと。
そのアパートはメゾネットタイプの物件で縦に長い構造をしており、各世帯の出口ドアには簡易な門が設置されている。
そんなアパートの端にある部屋に大家さんは住んでいた。
大家さんは僕の顔を見ると「あんたは長く住んでくれるといいんだけどねぇ」と笑った。
どういう意味だろう、まさか事故物件じゃないだろうな……と思いつつ僕は部屋に戻った。
僕の部屋の外についている門は立て付けが悪いらしく、門を開けるとキィと甲高い音を上げた。
やがて分かったのだが、問題はまさにその門にあったのだ。
最初は「キィ」と聞こえていたその開閉音が、次第に人の声に聞こえ始めた。
僕が会社に行こうと門を開けると「いってらっしゃぁい」と聞こえる。
そして会社から帰ってきて門を開けると「おかえりなさぁい」と、こうだ。
それは女の声で、面倒なことに僕が飲み会から帰ってくると「飲み過ぎはダメよぉ」などと指図するのであった。
なんなのだ、これは。
まさか霊障の類なのかと思いつつ、僕は恐れよりもどちらかというと苛立ちに近い感情を抱いていた。
そしてある日、これはもう我慢ならぬということで門に油を差した。
すると門は「キィ」とも言わなくなり、おとなしくなった。
よしよしと僕は平穏の日々を取り戻したのだが、数日経つとまた元どおり話し始めてしまった。
「くそ! なんなんだよ、もぉ」
そんな風にいらだつ僕に門は
「恋の炎で油は燃えちゃったわ」
などといけしゃあしゃあと答えるのであった。
そんな小憎たらしい門だったのだが、住めば都というか、毎日毎日顔を合わせるうちに不覚にも愛着がわいてしまった。
比較的仲良く話をするようになり、僕は「おまえは幽霊なのかい」と踏み込んだことを聞いてみたが門は「私は生まれた瞬間から門なのよぉ」などと答えるのだった。
それから僕はたまにだが門との会話を楽しむようになった。
門は、僕が何か尋ねて門を引くと「私は〜そうねぇ〜」などと答え、僕が門を押すと「私はこう思うわぁ〜」などと言葉をつなげるのだ。
大家さんが心配したような事態にはならず、僕はその家に比較的長い時間住んでいたが、とうとう引っ越すことになった。
僕は一応大家さんに「あのぅ、門だけ引き取らせていただくことはできませんか?」と聞いたが「何言ってんだい」と呆れられた。
そりゃ、そうだ。
新居も決まり、いよいよ明日引越しを行うという日の夜、僕はほとんどの荷物がダンボールにしまわれた簡素な部屋を出て門の前に立った。
「いよいよ明日、行くことになっちゃったよ」
僕がそんな風に話しかけながら門を引くと、門が言った。
「私にぃ〜よくしてくれたのはぁ〜」
今度は門を押す。
「あなたが初めてぇ〜」
引く。
「ありがとぉ〜」
「最初、君が話し始めた時はどうしようかと思ったけどね」
「うふふ〜」
そんな風に門と話をしていると、隣の部屋の住人が窓から顔を出して「うるさい!」と怒った。
翌日。
僕はやってきた引越し業者さんに指示をして荷物を運び出してもらった。
男の一人暮らし、大した荷物はなく、引越し作業はすぐに終わった。
がらんとした部屋をぐるりと見渡してから、僕は部屋を出た。
門の前に立った僕は「じゃあ、行くよ。元気でな」そう言ってから門を通った。
門は僕が引くと「引越し作業お疲れ様〜」と言い、門を戻すと「体に気をつけてぇ〜」と言った。
門を離れた僕は、だけど思い直してもう一度だけ門を引いた。
門は小さく「キィ」と鳴った。
その後何度押したり引いたりしてみても、キィだの、グゥだの言うだけで言葉を話さない。
何回かそうした後、僕は「あぁ、泣いているのか」とようやく気づいた。
そんな僕に大家さんが声をかけた。
「おや、まだいたのかい」
「はい。長い間お世話になりました」
「こちらこそ。元気でね。長く住んでくれてありがとう」
「あの……この門。たまに油を差してあげてください。喜ぶかも」
「そうだね。そうするよ」
「それで……もしこのアパートを取り壊すようなことがあったら、連絡をください。門を引き取りたいので」
僕はそう言って、思い出のアパートを後にした。
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