スロウバー

ショートショート作品
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 バーの中に入ると、いつものぼんやりとした感覚に襲われた。

 このバーに入るといつもこの感覚を味わうことになる。

 私がこのバーに通う理由もこの感覚にあるのだ。

 このバーは時間の流れが遅い。

 ゆったりとした雰囲気だからそのように感じられる、と、そういう意味ではない。

 ”実際に”時間の流れが遅くなるのである。 

 ここでは全ての時間がぼんやりしている。

 バーには時計もない。

 スマートフォンなどの時間を知るための道具は電源を消したりカバンの中にしまうことが推奨される。

 私はゆっくり、ゆっくりとバーの中を歩いた。

 このバーの中では自分の所作も遅くなる。

 私はたっぷりと、おそらく三十分以上かけて、飲み物を注文した。

 そして運ばれてくるカクテルをたっぷり一時間はかけて飲んだ。

 あとはただひたすらボーッとするだけ。

 それだけだ。言い方を変えれば、それが肝要なのである。

 日常とは違った時間の流れを楽しむのがこのバーでの正式なふるまいである。

 私はバーに長時間居座ったが、たいした金額を落とさなかった。

 前にこのバーを経営するマスターに聞いてみたことがある。

 ここでは時間の流れが遅く感じられる。

 だからたとえ長く居座っても大した数の注文は入らない。

 そんな状態で経営が成り立つのか、と。

「お〜〜きゃ〜〜く〜〜さ〜」

 マスターはそんなのんびりした調子で答えた。

“お客様に満足していただくことが私の喜びですから”

 それがマスターの答えだった。

 まったく、のんびりとしたこのバーの主人らしい答えだなと思ったものだ。
 

 会計を済ませて店を出ようと出口に近づくと、出口近くのカウンターにこの店の常連の老人たちがいた。

 私は常連たちに軽く挨拶をしたが、常連たちはとろんとした目をするだけで何も答えなかった。

 彼らはずっとここにいる。

 私は彼らを見る度、彼らはきっと死が怖くなった人々なのだろうと思う。

 確かにここにいれば時間の流れは遅くなる。

 しかしここにいすぎると頭の働きまでも遅くなるのではないかというのが私の考えだ。

 だから酒と同じくこのバーの時間も程々に楽しむのが良いのだ。

 バーを出ると時間の流れが急速に早くなり、夜がふけていく。

 私は足早に家に帰り、早々にベッドにもぐりこんだ。
 

 翌朝。

「ほら、起きて! 早く歯磨いてご飯食べて着替えてよ!」

 妻のそんな声に目を覚ます。

 そんなにいっぺんにできるかい。

 私はあのバーからこの家に戻ってくるとつくづく考える。

 もしやこの家だけ時間の進み方が早いのではないか……と。

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