私はある博士の助手をしている。
博士はものすごく聡明で数々の画期的な発明をしているのだが、それを鼻にかけることもなく、いつも自分の興味の赴くまま研究や発明を続けている。
私はそんな博士を尊敬している。
その博士が目下取り組んでいる研究は”海底スーツ”の研究だ。
博士は今、深海の神秘に魅せられている。
遠い宇宙よりも近い、だが謎に包まれている深海。
その深海に一人で潜る為のスーツを開発しているのだ。
ちなみに現在地球で一番深い海はマリアナ海溝にあるチャレンジャー海淵だと言われている。
今までその海底にたどり着いた人間は数人しかいない。
それも、当然だが探査艇に乗っての記録だ。
それを博士はスーツ一着だけで達成しようと言うのだから無謀な挑戦であることは間違いない。
だがそんな無謀な試みにも関わらず博士の海底スーツはほどなくして完成し、いよいよチャレンジャー海淵に挑戦する日となった。
もし成功すれば歴史的な快挙だし、挑戦するだけでも大きな注目を浴びるはずなのに、博士はセレモニーなどを拒み、助手である私一人だけの前で海底に向かった。
そういうところが無欲というか、私が好ましいと思っている部分である。
博士からは適宜通信が入る。
そこで何か異常があったら博士の体につながっているワイヤーで博士を引き上げるのが私の役目だ。
博士は順調に海底へと進んでいった。
そして……。
「ついに着いたぞ!」
博士の喜びの声がスピーカーから聞こえてきた。
水深メーターを確認する。確かに博士は最深部に到達していた。
「やりましたね、博士!」
「あぁ」
「なんてことだ、本当にこんなことが……」
歓喜に震えている私の耳に、博士の「ん?」という声が届いた。
「どうしました、博士」
「いや……何か、穴があるんだ」
「え?」
「調べてみる」
しばらくゴソゴソと博士が何かをかき分けるような音が聞こえた。
「なんということだ!」
「どうしました!?」
「ここが最深部じゃない。もっと深くに続いている穴がある」
「えぇ?」
「潜ってみる」
「博士、無理はしないでくださいよ」
「あぁ」
その後、たっぷり十分ほど博士からの通信が途絶えた。
もしや博士の身に何かあったのだろうか。
「博士!? 博士!」
私はマイクを引き寄せて博士を呼んだ。
やがて博士の体についているワイヤーの根元がくるくると巻き取りを始めた。
ということは博士はこちらに戻ってきているということだ。
博士はなぜ無言なのだろう。何かあったのだろうか。
私は何か嫌な予感を感じつつ博士の帰りを待った。
まさかワイヤーの先にいるのが博士ではなかったら、なんてことを考えたが、博士はきちんと海から顔を出した。
待っていたボートに博士を引き揚げた私は「何があったんです!?」と聞いたが博士は何も言わなかった。
ただ、ぼそっと「帰ろう」とだけつぶやいたのである。
研究室に戻った後も博士は塞ぎ込むような様子で、何をするでもなく椅子に座っていた。
目的を達成した虚脱感とは違う虚無が博士の周りに渦巻いている。
「博士」
私は我慢できずに博士に問いかけた。
「一体海底で何があったのですか」
博士は私の問いかけにぼんやりとした顔をこちらに向けた。
そしてぼそりぼそりとあの日あったことを話してくれた。
「海底に、穴があったんだ。チャレンジャー海淵の底、最深部と言われていた場所よりも、もっと深い穴だ。スーツの耐久値を確認した私はまだ潜れることを確認してから穴の中を進んだ。やがて穴の底に到達したよ。そこが正真正銘、海の最深部というわけだ。しかし、そこにあるものがあった」
「あるもの……?」
「看板のようなものだ。そこに、判別不能の数字に似た記号が書かれていた」
博士はそう言ってがっくりと項垂れた。
まさか、そんなことが。
しかし博士の憔悴ぶりを見る限りそれは事実なのだろう。
つまり、そこにそんなものがあったということは、博士よりもっと前に誰かがその地点に到達していたということだ。
前人未到の場所だと思ったが、そうではなかった。
博士の憔悴ぶりも頷ける。
「しかし博士。その人間は大人数でそこに到達したのかもしれません。しかし博士はお一人、しかもスーツ一着でそこまで潜った。それは素晴らしい業績です」
私がそう言うと博士が不思議そうな顔でこちらを見た。
そしてふるふると頭を振るとこう言った。
「そういうことじゃないんだよ。いいかい、看板には判別不能の文字が書かれていた。それはどうやら数字のようなものだった。そしてその数字に二本線が引かれ、さらにその下に数字のようなものが書かれていたんだよ。分かるかね。それはあるものに似ていた。……プライスカードだよ。スーパーやディスカウントストアなんかにあるあれだ。いいかい。つまり、地球は売りに出されていた。何者かの手によって。さらにだ。どうやら地球は、安売りされているらしいのだ……」
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