私は一人、引っ越したばかりのマンションの部屋を出た。
会社まではそう遠くないが、いつも早めに部屋を出ることにしている。
部屋を出て廊下を進み、エレベーターに向かう。
エレベーターはすぐにやってきたので、私は乗り込んで『閉』ボタンを押した。
「あー、待った待った!」
廊下の奥から、青いパーカーを着た青年が走ってくる。
私は『開』のボタンを押して青年を待った。
「すみません、どうも」
青年がそう言ってエレベーターに乗り込んだのを確認して、私は改めて『閉』ボタンを押した。
エレベーターが下降を始める。
一応自己紹介をしておこうかと思い、後ろを振り返った。
しかしそこには誰もいなかった。
「ひえぇ!」
そんな情けない声を出してしまう。
さっき、確かに、私は青年を……。
そのうちにエレベーターが一階についた。
開いたドアの向こうに、管理人さんが立っていた。
「おや、桜井さん。おはようございます」
管理人さんにそう声をかけられて、私はようやく金縛りから解けたような気持ちになった。
「どうかしましたか?」
「い、いえ……あの、このマンションの十二階に、男の子って住んでいますか。大学生くらいの……」
私がそう聞くと、管理人さんは特に驚く様子もなく「あぁ、出ましたか」と言った。
「出た……?」
「エレベーターに乗ろうとしたら声をかけられたでしょう」
「え、えぇ。でも、確かに乗り込んだはずなのに、いなくなってしまって……」
「あの子はいつもそうやって遊んでいるんですよ」
「遊ぶ……?」
「あの子は、もう何年も前に亡くなった子でしてね。これからも見かけるかもしれませんが、どうか怖がらないでやってください」
管理人さんとそんな話をしたあと、実際に私は何度も彼を見かけた。
マンションに向かって帰ってくる時にふとマンションの廊下を見上げると、他の住人が乗り込もうとしているエレベーターに駆けていく姿を見かけた。
エレベーターに乗り込もうとすると、廊下の向こうから走ってくる彼に声をかけられた。
しかし彼を乗せた後に振り返っても、そこには誰もいないのだ。
このマンションに前から住んでいる人はみんな彼を知っていて、誰も彼を怖がってはいなかった。
かく言う私も、何回もその姿を見かける度に慣れていった。
ある日、私はいつもの時間に部屋を出てエレベーターに乗り込んだ。
すると廊下の奥から「おーい! 待って!」という声が聞こえてきた。
いつも通り『開』のボタンを押して彼を待つ。
彼が乗り込んだ後に『閉』ボタンを押した。
まだ彼がエレベーターにいる気配がする。
私は後ろを振り返らずに彼に話しかけた。
「どうしていつもエレベーターに駆け込むんだい?」
すると彼が返事を返してきた。
「僕はヒッチハイクが好きなんですよ」
「ヒッチハイク?」
「はい。車に乗せてもらう、あれです」
「ヒッチハイクが好きっていうのは、旅行が好きということかね」
「いいえ。乗せてもらうことそのものが好きなんです。ヒッチハイクって人間の善意の塊なんですよ。見ず知らずの人間を車に乗せてくれる。そんなの、善意以外の何ものでもないでしょう。まぁ僕が女の子だったら違うかもですが。だから、好きなんです」
「へぇ。じゃあもしかして、このエレベーターに駆け込むのも?」
「はい。ボタンを押して待っていてくれる人が好きなんです。あれも優しさでしょ」
「確かにね。でも、変わった趣味だなぁ」
「もしかして取り戻そうとしているのかもしれません。生きていた時の時間を」
「取り戻す?」
「はい。人の善意に触れることで。生きている間はそういうのに触れることが少なかったから」
「なにか……あったの?」
「聞かない方がいいと思います」
彼がそう言った時、エレベーターが一階について扉が開いた。
もうそこに彼がいないのが、気配で分かった。
それから私は彼と長い付き合いになった。
私が毎朝部屋を出てエレベーターに乗ると、彼がやってきた。
一階までの短い時間、彼と言葉を交わすのがちょっとした楽しみになっていた自分に気がつく。
快活な彼はこれから会社に向かう憂鬱な気分を吹き飛ばしてくれた。
だが、そんなマンションから引っ越すことになった。
引越しの前の日、私は彼に引っ越すことを伝えた。
「寂しくなります」
青年はそう言ってくれた。
「一つ聞いていいかい」
私はずっと気になっていたことを聞いてみることにした。
「なんです?」
「君、わざと私が会社に向かう時間にエレベーターに乗り込んでくれていただろう」
他のマンションの住人に聞いたところでは、毎日会うというよりはたまに会うくらいという話だった。
しかし私は毎朝このエレベーターで彼に会った。一日も欠かさず、毎日。
「バレてましたか」
彼がそう言って頭を掻いた。いや、その気配がした。
「どうしてそんなことを?」
「おじさん、いつも死にそうな顔してたから。亡霊みたいに」
確かに……そうだったかもしれない。
私は仕事が好きではなかった。
毎朝憂鬱な気持ちで家を出ていた。
彼はそれを察知してくれていたのか。
実際私は彼の快活な明るさのおかげで少しずつ前向きに考えることができるようになっていった。
このマンションを出るのも、転職をするからである。
やりたいと思ったことをやってみようと思っていた。
それにはこのマンションの家賃は少し高すぎる。
「心配かけたね」
「いいえ。今、おじさん、いい顔してるから嬉しいっす」
「ありがとう」
エレベーターが一階につくと彼が言った。
「じゃあ……お元気で」
「君もね」
温かい彼の気配がエレベーターを出ていった。
彼の影響で、すっかりヒッチハイクが趣味になってしまった。
といっても、乗せる方だが。
夜、私は業務時間外に車を走らせる。
昼間は個人タクシーの運転手として働き、夜は気ままにドライブする。
そしてヒッチハイクを求める若者を乗せるのだ。
私は意外なほど自分が車の運転が好きだということを彼との何気ない会話で思い出したのだ。
今日も山道を走っていると、一人の女の子が道端で手を上げていた。
私は彼女のそばに車を止め、後部座席に乗り込んだ彼女に「どこまで?」と聞いた。
「隣町まで」
彼女が小さな声で答える。
車を発進させた私は、彼女に言った。
「こんな夜中のヒッチハイクは危ないよ」
彼女からの答えはない。
チラリとバックミラーを見ると、彼女が頭から血を流し始めた。
その姿を見て、私は言った。
「悪いけど、私はそういうの慣れてて驚かないんだ。君、いつもそうやって誰かの車に乗って驚かせているんだろ。寂しいんじゃないかい」
彼女は答えない。
「良ければ友達を紹介するよ。そいつもヒッチハイクが趣味なんだ。風変わりなやつだが、悪い奴じゃない。良ければそいつのところに連れて行くよ。いいかな?」
彼女は答えない。
しかしまもなく彼女がしゃくり上げる音が聞こえてた。
それを聞いた私はハンドルを切って、昔住んでいたあの懐かしのマンションに向かって車を走らせた。
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