垂れ幕献立

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 僕は引っ越したマンションである噂を聞いた。

 それは「横断幕」に関する噂だった。

 毎日、夕方四時くらいになると、ある部屋のベランダで横断幕が広げられるそうだ。

 そこに書いてあるのは、なんと夕食の献立らしい。

 例えば「カレー」だとか「唐揚げ」だとかそんな感じで献立の書かれた横断幕が部屋のベランダに広げられるそうである。

 なぜそんなことをしているのだろう。

 僕はその噂が気になって仕方がなかった。

 なんでそんなことをしているのか。

 その理由を聞いてみたい。

 引っ越してから一週間後、僕は月に二回行われるマンションの自治会に参加した。

 本当は参加してもしなくてもどっちでもいいのだけれど、あの横断幕の噂を確かめてみたいと思ったのだ。

 自治会の話し合いが終わった後、世間話をしているマンションの住民の一人に、僕は聞いてみた。

「あの、すみません」

「はいはい」

「301の園崎ですが、あの、こちらのマンションの”横断幕の噂”って知っていますか?」

「あぁ、はい、知っていますよ」

「あの、あの横断幕って確か五階の方の部屋ですよね」

「えぇ、そうです」

「あれはなんなのかなー……って思っていまして」

「やっぱり不気味ですか」

「いや不気味ってことではないんですけど。興味があって」

「じゃあ今度、うちで夕食でもご一緒にどうですか。あの横断幕の秘密を教えてあげますよ」

「え、でも……」

「504の田島です。うちなんですよ、横断幕を広げているのは」

 まさかたまたま声をかけたその人が横断幕の人だとは……。

 僕は夕方四時少し前に504号室の前に立っていた。

 こうなったら仕方ない、と思いきって呼び鈴を鳴らす。

 部屋の中から田島さんが顔を出した。

「やぁやぁ、ようこそ。どうぞどうぞ」

 田島さんに案内されて僕は504号室に足を踏み入れた。

「さてと、今横断幕をかけるので、ちょっとソファで待っていてください」

 田島さんにそう言われた僕は「横断幕をかけるところ、見ていてもいいですか」と聞いた。

「あぁ、そうだね。もちろん」

 僕は田島さんと一緒にマンションのベランダに出た。

 いつも下の方から眺めている横断幕を裏側から見ることになんだか少しドキドキしてしまう自分がいる。

 僕は田島さんが広げた横断幕の片方を持ってかけるのを手伝った。

 手伝いながらこっそり横断幕の表を見ると「ラーメン」と書いてある。

 なるほど、今日はラーメンか。

「ありがとう。じゃあお茶でも淹れようか」

「ありがとうございます」

 僕は田島さんにお茶を淹れてもらって、それを飲みながら田島さんと談笑した。

 田島さんは話上手で世間話をしているだけで面白かったが、僕は少しそわそわしていた。

 あの横断幕、やはりあれは田島さんの家の献立を表していると思っていた。

 そして先日、彼は「うちで夕飯でも」と言ったのだ。

 だとしたら、今日はラーメンが出てくるはずである。

 僕は田島さんがお茶を飲むだけでのんびりしていることに焦れ始めていたのだ。

「あぁ、そうだ」

 田島さんが何かを思い出したように言った。

 作り始めるのか?

「横断幕のことだがね」

「あ、はい」

「園崎くんは、このマンションの向かいにもたくさんマンションがあるのを知っているだろう」

「えぇ」

 僕たちが住むマンションの川を挟んで反対側にもたくさんのマンションが立っていた。

「このマンションは独身者の人が多いけど、あっちの方のマンションにはね家族で住んでいる人が多いんだ」

「へぇ、そうだったんですか」

「そうさ。そして、あのマンションのすぐ近くにスーパーがある。ここまで来ると、ピンと来たかな?」

「え?」

「ははは。私はね、そのスーパーの店長なんだよ。いいかい。人間というのは表層心理の奥に深層心理を持っている。そしてその深層心理は自分の意志とは関係なく作用する。”ピザ”という文字を見たら、意志とは関係なくピザのことを考えてしまうんだよ。そんな状態でスーパーに行ったらどうなると思う? 売れるんだよ。ピザを作る為のチーズだったり、冷凍ピザだったりがね」

 田島さんはそう言って笑った。

「それが分かっていれば、事前にそれらの発注量を増やしておけばいいのさ。スーパーにおいて最も大切なのは仕入れなんだよ。つまりあの横断幕の正体はマーケティングの一種というわけだ」

 まさか、そんなことが……。

 でも確かに、時間帯も夕方四時近くと言えば夕食を作る前に買い物に行く人が多い時間帯ではある。

 横断幕の噂にはそんな真相があったとは。

 その時、部屋の呼び鈴が鳴った。

「おっと。私はそろそろ横断幕をしまわなければならないので、出てもらっていいかね」

「えっ」

 田島さんはさっさとベランダに向かってしまった。

 仕方なく僕は玄関の鍵を開けて扉を開けた。

 目の前にヘルメットを被った男の人が立っていた。

「お待たせしましたー」

 男の人がそう言って差し出したのは……岡持に入ったラーメンだった。

「えぇと、あの、どういうことですか」

「あれ、田島さんは?」

「今は横断幕を片付けています」

「あぁ。田島さんはですね、今時スマホも持っていないし固定電話もひいてないので、あぁやって横断幕で出前を頼むんですよ」

「えぇ!?」

 僕が後ろを振り返ると、ベランダで横断幕を片付けていた田島さんがこちらを見てニヤリと笑った。

 もう、一体どれが本当なんだ!

 僕が玄関にあった”ラーメン代”と書かれた封筒の中のお金を支払ってラーメンを受け取ると、田島さんが「さぁ食べようじゃないか」と言って笑った。

 横断幕の真相は結局うやむやなままだった。

 いずれにせよ、僕には面倒くさい友人ができてしまったのは間違いないようだ。

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