私は結婚式の準備で智くんの実家にやってきていた。
式当日についての打ち合わせだったり、智くんが当日着る着物の確認などをする予定である。
智くんに案内された和室に入ると、立派な紋付袴が壁にかけてあった。
結婚式の日に智くんが着るものだ。
「これ、かっこいいだろ。じいちゃんのお下がりなんだぜ」
「へぇ〜、そうなんだ」
「じいちゃん、怒ると怖くてさぁ。でも好きだった」
智くんは家族のことを話す時に優しい顔をする。その顔が私は好きだった。
「智〜」
台所の方から智くんを呼ぶおかあさんの声がして、智くんは「ちょっと行ってくる」と部屋を出ていった。
私は一人、立派な紋付袴を眺めた。
袴ってどういう作りになっているのだろうと興味があったのでぺろりとめくって中を見てみる。
すると、袴の奥、壁があるはずの場所にぽっかりと穴が開いていた。
「あれ。なんだこれ」
壁の模様でもなさそうだ。
壁が……壊れている? いや、それにしても妙だ。
不思議に思って穴を眺めていると、穴の奥の方から「おーい」と私を呼ぶ声がした。
「え、え?」
「おーい、こっちこっち」
穴の奥から確かに誰かの声がする。
私はゆっくりと穴の中に頭だけを入れて、中を見た。
穴の中は真っ暗だったが、奥の方にぼんやりとした光が見えた。
「どなたかいらっしゃるんですかー?」
「おるおる。こっちだー」
私を呼ぶ声がなんだかやけにフレンドリーだったので、私は思わず穴の中に進んだ。
すると、穴の奥、光のある場所におじいさんが立っていた。
光が当たっている場所におじいさんが立っているのかと思ったが、それは思い過ごしで、おじいさんが光っているのだった。
ぼんやりとした光のかたどるおじいさんは優しい表情で私を迎え入れた。
「やぁやぁ、よく来たね」
気さくに話しかけてきたおじいさんは、どことなく智くんに似ていた。
もしかしてこの人……?
「あのぉ、もしかして智くんのおじいさんですか」
「そうそう! よく分かったねぇ」
「あ、鼻がすごく似ているから。あと、目も」
「そうかぁ」
そう言っておじいさんは嬉しそうに笑った。
「あの、ここってどこなんでしょう?」
「ここ? ここは袴の中だよ」
「袴の中?」
「そう。私はね、孫の智の結婚式を見に来たんだが、依り代として与えられたのがこの紋付袴だったんだよ」
「依り代……ですか?」
「なんていうか、霊のいつく場所みたいなことだよ。この袴は先祖代々伝わるものだからね。そういう力があったんでしょう」
「なるほど」
「ところで、お嬢さんが智さんのお嫁さんだね?」
「あ、はい。有希と申します」
「有希さんか。素敵な名前だね。智をよろしく頼むよ。あいつはあれでまだまだ子供だから、支えてあげてもらえると嬉しい」
「はい」
「それと、あいつは酒が好きだろう?」
「えぇ」
「酒にはくれぐれも気をつけろと言っておいてあげてくれるかな。私も苦労したからね、酒では」
「分かりました」
私がそう答えると、智くんのおじいさんはそれまでの厳かな雰囲気とは打って変わって、腰の低い調子で言った。
「それで、有希さん。ちょっとお願いがあるんだがね」
おじいさんはそう言うと私にごにょごにょとあることを耳打ちした。
「えぇー! 嫌ですよ、私が智さんに怒られちゃいます」
「そこをなんとか。お願い!」
智くんのおじいさんが手をパンッと頭の上で合わせてお願いする。
怖いところもあったなんて聞いたけど、ほんとかなぁなんて思う。
仕方なく、私はそのお願いを聞くことにした。
「もう、わかりましたよ」
「わーい! やったー!」
おじいさんがその場でぴょんと飛び跳ねる。
「有希さんが怒られるようなことがあったら、私が枕元で智に説教してやるから」
「もー、約束ですよ!」
私が言うとおじいさんはうんうんと頷いた。
「あ、私そろそろ行かないと。智くんが探しているかも。出口ってどっちですか?」
「あっちだよ」
おじいさんは私の後ろを指差していった。
「じゃあ、私、行きます」
「あぁ。有希さん」
おじいさんは元の真面目な様子に戻って言った。
「智をよろしく頼む」
私は「はい」と返事をして元の世界へ戻った。
穴の中から出ると、そこは元の和室だった。
「有希ー! おーい!」
家の中がバタバタと騒がしく、どうやらこの騒ぎの元は私なのだと気づいた。
私が部屋から出て智くんを呼び止めると、智くんは慌てた様子でドタドタとこちらに走ってきた。
「どこ行っていたの!?」
「あ、うん。ちょっと、ね」
そして結婚式の日がやってきた。
結婚式はいわゆるホテルや結婚式会場でやる大々的なものではなく、私と智くんの親戚だけが集まって披露宴をする形式だった。
これは私も智くんもそういう結婚式がいいねと話をして決めたもので、どちらかの家にそうしなさいと言われてしたわけではない。
会場は智くんの実家で、一番大きな部屋に私は白無垢を着せてもらって座っていた。
紋付袴を着た智くんとの写真は写真屋さんにちゃんと撮ってもらった。
両家の親戚がたくさん集まってくれて、私は賑やかな時間を智くんと一緒に楽しんだ。
そして、披露宴も盛り上がりくだけた雰囲気になってきたところで、私は例の作戦を実行に移すことにした。
智くんのおじいちゃんから依頼された作戦である。
私はそれまで一応おとなしくしていたのだが、親戚のおじさんと話をする智くんのすきを突いてお酒の入った徳利を手に取った。
そしてそれを……よろめくふりをして智くんの紋付袴にぶちまけた。
「わーーー!」
智くんが驚いた声をあげる。
「わ、ご、ごめん!」
あらかじめ用意しておくようなものではないものの、一応用意しておいたリアクションをした。
「あら、大変大変!」
私の親戚のおばちゃんたちがやってきておしぼりで紋付袴を拭いてくれる。
今頃おじいちゃんはちゃんとお酒が呑めているだろうか。
まったく、孫には「酒に気をつけろ」と言っておいて、自分は「酒をな、ちょっと飲みたいから、徳利を……」なんて新婦に頼むなんて。
私は「ごめんなさい、ごめんなさい」と親戚の方々に謝った。
披露宴がお開きになって、白無垢を脱がせてもらった私は、台所でお茶を淹れてくれている義理の母のところに向かった。
「あの、おかあさん」
「あら有希さん。疲れたでしょ?」
おかあさんはそう言って笑った。
「えぇ。あの……袴を濡らしてしまって申し訳ありませんでした」
義父はその場でわははと笑って許してくれたけれど、おかあさんは何も言わなかったので、私はそれがとても気になっていた。
これでさっそく嫌われてしまったらどうしようと真剣に心配していた私に向かって、おかあさんは意外なことを言った。
「おとうさんに頼まれたんでしょう」
「え?」
「昨日、有希さんがいなくなった時ね、もしかしたらおとうさんに会ったんじゃないかって思ったの。私の時もねぇ、袴を見せてもらった時、その中に呼ばれたの」
「えぇ!? そうだったんですか?」
「そう。あの袴はなんだか不思議な力があるみたいね。それで、中に入ったら夫の祖父だっていう人がいた。その人にね、なんて言われたと思う? ”ワシは無類の寿司好きでの。寿司をぶちまけてくれ”って言われちゃったのよ」
「お寿司ですか?」
「そうよぉ。有希さんはお酒でラッキーだったわよ〜」
そう言ってウインクしたおかあさんといっしょに、私は笑った。
その日は智くんの実家に泊まった。
智くんはお酒をこぼした私に怒ったりしなかったけれど、それでもおじいさんは念の為釘を差しておこうと思ったのかもしれない。
隣の布団で眠っている智くんが、「う〜ん、じいちゃんごめん」と一晩中うなされていた。
コメント