「あ、しまった。綾瀬。あんたもう帰ったほうがいい」
雪代教授がいきなりそんなことを言った。
私の通う女子大の教授である雪代教授は私の憧れである。
白衣を着てビシッと決めた姿は同性である私から見ても魅力的だ。
理系の先生なのに民俗学に通じているところもポイントが高い。
今も教授室で民俗学に関する話をしてくれていたのである。
「帰るって……どうしてですか」
いきなり帰れと言われた私はカーテンの隙間から外を見ている教授に聞いた。
すると教授は持っていたカーテンを離しながら言った。
「さまよいだれが降るから」
「さまよいだれ……? 五月雨じゃなくて、ですか」
「うん。霧雨のような現象なんだけど、そのさまよいだれの中を一人で歩くと現世ではない異質な世界をさまよい歩くことになるんだ。この現象は何故か女性が遭遇することが多いんだよ」
「へぇ……」
「それに綾瀬は今、私の民俗学談義を聞いてちょっと夢見心地な気分になっているでしょ。そういう時が一番危ないの」
雪代教授はまたカーテンから外を覗き込んで「早く、急いで」と私を急かした。
追い出されるようにして教授室を出た私は大学のキャンパスを一人歩いた。
すでに弱い霧雨が降って来ている。
傘を持っていなかったのでちょっと小走りで走っていると、妙なことに気がついた。
キャンパスに人影がまったくなかった。
まだ時間も遅くないし、いつもならどこかしらに誰かが歩いているのを発見するのだけれど、今は霧雨の中、奇妙な静けさに包まれていた。
私は走るスピードを速めた。
しかし走っても走ってもバス乗り場にたどり着けない。
どうなってるの……?
と、その時私はバス停どころか実験棟などの建物まで何もかもなくなっていることに気がついた。
まさか、本当にさまよいだれのせいで……?
先ほどの雪代教授の話を思い出し不安になった私は霧雨の中で立ち止まり、あたりを見渡した。
すると、遠くに誰かの後ろ姿を見つけた。
「あ、あの!」
小走りで近づいて声をかけると、その人が振り返った。
その姿を見て、私は思わず後ずさった。
振り返った人影……その顔は狐だった。
「なんでも……ないです」
やっとそれだけ言うと、私は踵を返した。
逃げるようにその場を後にする。
と、そんな私の目の前で巨大な影が動いた。
よく見ると、その影は重苦しい音を立てながらうねる巨大な蛇だった。
そしてその横を霧のように揺らめく虎が通り過ぎていく。
私は恐ろしくなってその場に立ち尽くした。
恐怖で足が動かない。
なんなの……これ。
「綾瀬ーーー!」
誰かが私を呼ぶ声がしてそちらを振り向くと、遠くに小さな光が見えた。
「綾瀬ーーー! こっちだ!」
雪代教授の声だ。
私は無我夢中で光に向かって走った。
やがて、霧雨の中から見慣れた建物が現れた。
研究室棟だ!
私がその扉を開けると、ぐいっと強い力で腕を引かれた。
雪代教授である。
教授は私の腕を引いて、教授室に押し込んだ。
「まったく、だから言ったのに。ほら、飲め」
教授はそう言ってマグカップに入った飲み物を差し出した。
「これは?」
「苦汁だ」
「苦汁……?」
「雑草なんかを煮たものだ。猛烈にまずいが、気付けになる。さ、飲め」
雪代教授に促され、私はマグカップの中の苦汁を一気に飲み干した。
それは今まで飲んだどんな飲み物よりも苦い、凄まじい味がした。
だがおかげでなんだか頭がすっきりしたように感じる。
「うん、もう大丈夫みたいだね」
雪代教授がカーテンを開けた。
霧雨が止んで、晴れ間が見えている。
「教授、すみませんでした」
「ま、私の監督不行き届きでもあるな。お、虹が出てる」
教授が窓を開けた。
その瞬間、私は見てはいけないものを見た気がした。
あるはずのない場所にある、耳。
それは獣の耳だったようだが……。
「もう帰れるよ、綾瀬」
夕日を背にこちらを振り向いた教授の顔を、私は見られなかった。
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