私は今、二段ベッドの上の段に正座をして、その時を待っている。
部屋の照明はついていないが、目が夜目になってきたので、かすかにそこにある布団が見えた。
看護師の泉さんが私と同じように正座をしてその時を待っている。
やがて……ぼんやりと男性の霊体がそこに浮かび上がってきた。
二段ベッドの下の段に寝ている男性のものである。
私は霊体専門の外科医だ。
幽体離脱によって生身の体を離れた霊体に手術を施す。
霊体に損傷や疾患がある場合、そこから気が流れて体に不調をきたすことがある。
それを治すのが私の仕事だ。
医者というよりも気功師などに近い仕事かもしれない。
霊体がはっきりと浮かび上がったことを確認した私は、泉さんに「メス」とつぶやいた。
宿主を起こさないように手術中はなるべく小さな声でやりとりする。
最も、泉さんは私が指示するよりわずか前にメスをこちらに差し出していた。
泉さんは知識豊富で優秀な女性看護師であり、なおかつ幽霊などの霊障を感じる才能もあった。
さらに性格は冷静沈着で体力もあるので長時間の手術にも耐えられる。
正直、これだけの人材をもう一人見つけるのは至難の業であろう。
今回の患者である男性の霊体にはいくつか損傷が見られた。
まずはそれらの損傷箇所を治療していく。
あらかたの施術を終えた私は一瞬迷ってから「クーパー」と泉さんにオーダーした。
泉さんからクーパーを受け取った私は、男の胸から伸びている糸を切り落とした。
男性の手術を終えて医院に帰ってくると、泉さんが「先生、私の霊体を診てくださいませんか。最近体が重くて」と言った。
泉さんがそんな弱音のようなことを言うのは初めてだったので、私は急いで泉さんを診察することにした。
医院に設置した手術用二段ベッドの下の段に泉さんを寝かせ、私一人で上の段に登る。
しばらくすると泉さんの寝息が聞こえてきた。
一人正座して泉さんの霊体が上がってくるのを待つ。
ぼんやりと青白い光がベッドの床を透過して浮かび上がってきた。
私はルーペを装着して仔細に泉さんの霊体を診察した。
特に異常はないようだが……。
そこで私はある可能性に思い当たり、ルーペを外して「失礼するよ」と小声でつぶやいてから泉さんの霊体に覆いかぶさった。
霊体の下に手を回す。
抱え込むようにして霊体を抱きしめてからグッと持ち上げる仕草をしてみる。
重い。
霊体に実体が伴い始めている。
通常、霊体に重さは存在しない。
だが、霊体から発せられる何らかの”意思”が実体、つまり体そのものの重さを伴うことがある。
表現するならば、「心此処にあらず」という状態になってしまい、気もそぞろで体に力が入らなくなるのだ。
霊体が意思を持つ原因はいくつも存在するが、ストレスがその際たる例である。
泉さんは真面目な性格だからうまくストレスの発散ができないのだろう。
その泉さんの精神が、楽になりたい、霊体に体を任せたいと考え始めているのだ。
もし原因が仕事にあるのならば少し泉さんを休ませなくてはならない。
そんな事を考えながら自分の体を泉さんの霊体から離そうとした時、ガシッと霊体に体を掴まれた。
「! ……泉さん?」
私は思わず霊体に問いかけてしまう。
霊体はその両腕を私の背中に回し、抱きしめるような形で動かなかった。
瞬間、泉さんの不調の原因がストレスなどではないことに気がついた。
しかしそれが分かったところで私はどうすればいいのか。
私の背中に手を回す泉さんの霊体を振り払うか、それとも抱きしめるか。
私は迷った。
もし抱きしめ返したら、今の状態から人生が先に進んでしまう。
身の回りの環境も大きく変わるだろう。
そうなってしまったら、私自身の能力がなくなるのではないか。
そんな不安が頭をよぎった。
家族を持った途端、この力が消え去ったとしたら……?
だが、自分にはこの手を振りほどく資格などないことを思い出した。
私は今日、手術を受けた男性の胸から泉さんの方へ向かって伸びる糸を切ったではないか。
はじめから逡巡の余地などないのだと悟った私は泉さんの霊体を抱きしめ返した。
泉さんと入籍した私だったが、懸念したようなことは起こらなかった。
私は以前までと同じ仕事を続けているし、その看護師として泉さんが働いているのも同じだ。
変化があったとしたら、泉さんが私と同じ施術をやってみたいと言い出したことだ。
私のやっている仕事は限りなく医師に近いが、本物の医師と違って免許などは存在しない。
私は泉さんに自分の技術を教え込んだ。
元々器械出しの頃から手先の器用さが光っていた泉さんはすぐに技術を物にした。
そして私たちはまた二人で二段ベッドの上の段に座っている。
しかし今日はいつもと座る場所が異なる。
今日は泉さんが初めて執刀医を務めるのだ。
入籍を機に一緒に住むことになった私たちの為に新居を紹介してくれた不動産屋の青年に、ぜひ霊体を診てほしいと言われたのだった。
二人でじっと正座をしていると、ぼんやりと青年の霊体が浮かび上がってきた。
私はそれを見てドキリとしてしまう。
青年の胸から糸が伸び、それが泉さんの方へ伸びているのだ。
「……パー。クーパー」
焦れたような泉さんの声に我に返る。
「あ、はい」
私は慌ててクーパーを泉さんに手渡した。
クーパーを受け取った泉さんは躊躇なく青年の胸から伸びる糸を切った。
そして泉さんは僕だけに分かるくらいに微かに笑ってから、手術を開始した。
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