俺が瞑想にハマったのは、某掲示板のある書き込みがきっかけだった。
「時間があるニートは瞑想やれよ。人生が変わり始めるからマジで」
そんな書き込みだったと思うが、その頃の俺は無職で部屋に引きこもり、時間だけは無限にある状態だったので、興味本位で瞑想を試してみることにした。
瞑想のやり方は思ったよりも簡単で、目を閉じるか半開きにして、あとは何も考えないようにするだけだった。
“何も考えない”というのが簡単なようで難しく、最初は苦労したが、自分の呼吸に意識を集中することで瞑想状態に入れる時間が増えてきた。
瞑想に成功すると、確かに何とも言えない気持ち良さがある。
でも、ただそれだけだった。
気持ちがよくなるだけで人生が変わるなんてことはなく、俺はそれまで通りの生活に瞑想を取り入れただけだった。
そんなある日のことだ。
瞑想を始めて、そろそろ何も考えていない瞑想状態に入るなと、おぼろげな感覚があった。
その瞬間、半目に開けた俺の目は自分の胸の前で動く影のようなものを捉えた。
“なんだ?”
そう思った時点で瞑想は失敗なのだが、目を開けた俺は驚くべき光景を目の当たりにしていた。
小さな小さな体をした、まさに「妖精」という表現がぴったりくるものが俺の胸に手を突っ込んだまま静止している。
妖精は恐る恐る俺の顔を見上げ、次の瞬間くるりと振り向いて逃げようとした。
「あ、待て!」
俺は妖精の髪をむんずと掴んだ。
正直掴めるかどうか分からず手を伸ばしただけだが、俺の手はしっかりと妖精を捉え、妖精はじたばたと俺の手を振りほどこうとした。
「なんだ、おまえ」
俺が問いかけると、妖精は観念したかのように抵抗をやめ、宙吊りの状態でこちらに振り向いた。
こいつはさっき俺の胸に手を突っ込んでいた。
そしてその時俺はまさに瞑想状態に入ろうとしていた。
つまり、そのまま俺がこいつを見つけなければ完全に無思考状態の瞑想に入っていたわけだ。
ということは……。
「おまえ……俺の思考を盗もうとしたのか」
俺の問いかけに妖精はふるふると首を振った。
「じゃあ……」
俺は先ほど妖精が手を突っ込んでいた自分の胸を見る。
「まさか……心、とか、そういうの?」
妖精はコクリと頷いた。
「たまに借りるんです」
妖精が突然話し始めたので驚いた。
こいつ、話せるのか。
しかも日本語を。
「借りる?」
「はい。人間の心を。それで、勉強したりします。人間が何を考えているのか」
「勉強って、勉強してどうするつもりなんだよ」
「あなた達人間の為に役立てます」
人間の為に役立てる……?
さっぱり意味が分からない。
しかし、この妖精からはおよそ邪気というか、悪気のようなものが感じられなかった。
もしかしてこいつは妖精ではなく、天使とか、そういう類だろうか。
そう思った俺は妖精に彼らがやっていることをもっと聞いてみることにした。
妖精は「答えられることだけ」と前置きしてから彼らの仕事について説明した。
彼らの仕事は、心を休めている状態の人間から心を借りて、人間の心について勉強することらしい。
“心を休めている”というのは先ほどの俺のように完全な瞑想状態になったり、夜眠ったりしている時のことを指すらしい。
寝ている時でも脳は休まないというが、心の方は休んでいるらしい。
そして彼らは、人間の心を借り、時にはその心に何かを植えつけたりもするそうだ。
よく”心を奪われる”という状態があったりするが、それはおそらく彼らの仕業なのだろう。
例えば、恋、とか。
こいつらはやはり天使で、キューピットのような役割も果たしているのかもしれない。
「僕らの仕事は人間の世界を良くすることです」
最後に妖精はそう言った。
こいつの言っていることはもしかしたらまったくの嘘かもしれない。
俺がこの部屋に閉じこもるようになる前に見ていた世界は決して良くなるような予感のある世界じゃなかった。
閉じこもってから大量に触れることになった、目に見えない電波からモニターに映し出された情報からも、俺は明るい未来なんて予想することはできなかった。
でも、目の前にいるこの妖精は、人間の世界を良くする為に働いていると言う。
もしかしたらこいつは宇宙人で、地球侵略の為に人間のデータを集めているだけなのかもしれない。
でも、もしかしたら本当にこいつは天使のような存在なのかもしれない。
俺は掴んでいる手を離して、妖精の目をじっと見つめた。
嘘は、ついてない、たぶん。
「心、貸してやるよ」
「あ、いやぁ……」
「ちょっと待ってて」
俺はまた目を半目にして、呼吸に意識を集中した。
色々な思考が湧いてきそうになったが、”天使のようなものが世の中を良くしようと働いている”という今までの人生観をまるごとひっくり返すようなスケールの大きさが、逆に思考を鎮めていく。
そして俺はやがて瞑想状態に入り、長い瞑想を行った。
瞑想状態が解け、日が傾き始めている頃に目を開けると、目の前を妖精がタタタタッと駆けていくところで、妖精はこちらを振り向くとぺこりと頭を下げた。
俺がそれに応えるように手を振ると、妖精はすぅっと消えていった。
「おはよう」
翌朝、家族が朝食をとっている時間に一階の台所に降りていくと、家族全員が目を丸くした。
両親は固まったように動かなかったが、妹だけがすぐに表情を戻して「はよ」と二文字だけの挨拶を返してきた。
「飯、ある?」
俺がそう聞くと、母親は嬉しそうに「今用意するね」と立ち上がった。
長らく誰も座っていなかったであろう自分の席につくと、テレビで朝のニュースをやっているのが見えた。
芸能人が誰か結婚したらしい。
「チャンネル変えるか」
と親父がリモコンを手に取る。
そう言えば、引きこもる前の俺はテレビを見るたびに悪態をついているような人間だったっけ。
“朝から興味ねーよ、こいつらのことなんて。テレビ消せよ”
“気が滅入るようなニュースばっかだよな。終わりだよこんな国”
しかし今は、素直に、ただまっすぐに、テレビの中で笑っている二人が幸せになればいいなぁと思うことができた。
あの二人を引き合わせたのも、もしかしたらあの妖精たちかもしれない。
「いいよ、そのままで」
俺がそう言うと、親父が体中の緊張を解いたように、ゆっくりとリモコンをテーブルに戻した。
「はい」
と母親が目の前に温かそうな味噌汁をおいてくれる。
「いただきます」
そう言って味噌汁を口に含む。
久しぶりに飲んだ出来立ての味噌汁は温かくて、俺はその温かさに自分の体がゆっくりと解きほぐれていくのを感じた。
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