「これが良さそうだな」
再生回数も多いし、レビューも高い。
最近は無料の味覚素材サイトでもそれなりのものを探すことができる。
その日僕が探していたのはステーキの味覚素材だ。
良さそうな素材が見つかったので、僕はそれを味わう為の準備を進めた。
まずは冷蔵庫の中から「無味肉」を取り出す。
これは水と空気から作られた、ただ腹を満たす為の素材であり、味はしないのはもちろん外見も肉とは似ても似つかない。
ただの透明なゼリーのような物体だ。その代わりとても安価なのである。
僕は鼻歌を歌いながら無味肉を載せる皿とナイフとフォークを用意し、テーブルの上に設置すると、今度は洗面所に向かった。
コップの中に液体を注ぎ、それを口に含む。
うがいの要領で十分に口と舌全体に液体をなじませてから吐き出した。
液体の中にはたくさんのナノマシンが含まれており、舌や口に付着したナノマシンが素材から味を伝える媒体となってくれる。
ナノマシンは飲み込んでも害はないが、普通はうがいをした後、吐き出す。
準備を整えた僕は、テーブルについて先ほどの無料素材から舌や口に付着したナノマシンに素材の味覚情報を転送した。
「いただきま〜す」
ナイフとフォークを持って、無味肉に切れ込みを入れる。
念の為、ごく小さな切れ端を作って口に運ぶ。
「うん、美味い!」
そしてさらに念には念をと無味肉の中央部分も少しだけ、かじってみた。
おかしな味はしない。
無料素材サイトは違法アップロードされたものも多いので、たまに地雷が存在する。
それはつまり、ステーキの味ではなく、まったく違うもの(それが食べ物である場合はまだいい)が隠されている場合があるのだ。
この素材は大丈夫だと判断した僕は、次々と無味肉を口に運んだ。
ジューシーで香り高いステーキの味が口いっぱいに広がる。
最近ようやくこうして食事をきちんと摂れるようになってきた。
ステーキを半分くらい平らげた時だった。
「あ〜、またそんなの食べて!」
という妻の声が聞こえてきた。
「わ、もう帰ってきたの」
「もう帰ってきたの、じゃないでしょ! も〜何勝手に食べてるのよ〜」
そう言って妻がテーブルの上を覗き込む。
「あ〜ステーキなんか食べて。私の料理が美味しくないっていうのね」
「そ、そんなことないってば。君の料理は世界一美味しいよ」
「調子いい事言って」
「本当だってば!」
「ふ〜ん、言ったわね」
妻がにやりと笑う。僕はなんだか嫌な予感がした。
「さぁ召し上がれ」
嫌な予感は的中した。
妻は昼間僕がこっそり仮想ステーキを食べていたのが気に入らなかったようで、自分でもステーキを焼いたようである。
「うっ……またステーキか」
「昼間のと食べ比べてよ。私の料理は世界一美味しいんでしょ?」
そう言って妻がいたずらっぽく笑う。
僕はしぶしぶ妻のステーキを口に運ぶ。
昼間のステーキよりも、確かに美味い。
「ん。美味い」
「そう、よかった」
「でも二食連続ステーキはキツいよ〜」
「私に隠れてこっそり食べるからよ」
楽しそうに笑う妻の分のステーキには手をつけられていない。
「君は食べないの?」
「私は後でいい。食べたければ私の分も食べていいよ?」
「いらないよ」
妻はじっとこっちを見つめている。
「落ち着かないな。君も食べなよ」
「だから後でいいってば」
「……ねぇ」
「ん?」
「君の作った卵焼きが食べたい」
「だ〜め。お預け」
「ねぇ、意地悪言わないでよ。食べたいんだよ」
「……」
ナイフを持つ手に涙がこぼれてしまい、妻の姿がぼやけた。
あっと思った時には、目に装着したコンタクトがずれて、目の前の妻の姿が消えた。
目から外れた仮想視覚用のコンタクトレンズが頬を伝って、落ちた。
テーブルの向こうに見える棚の上で、妻の遺影が笑いかけてくる。
その日によって色々な表情に見える妻の笑顔は、今日は困って笑っているように見えた。
溢れてくる涙を腕で拭うと、耳につけた仮想聴覚用イヤホンから「ごめんね」と妻の声が聞こえた。
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