もたれ壁

ショートショート作品
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「部長って、疲れたりしないんですか?」

 部署の若手社員に突然そんなことを聞かれた。

「なんだよ、藪から棒に」

「いやぁ、いつもキリッと仕事してるし、疲れたりしなさそうだなぁって」

「そんなわけないだろ」

 私は、若手にそんな風に見られていると知って内心ちょっと嬉しくもあったが、実際疲れないわけがない。

 管理職についたはいいが、日々心労の日々だ。

「じゃあ部長にも”もたれ壁”はいいかもですね」

「? なんだいそれ」

「知らないんですか? 今話題なんですよ。いつも疲れている人なんかが、ただ”もたれる”為だけに使う壁です。リラックス効果とかストレス軽減とか、色々効果があるみたいなんです。家にもたれ壁がある人、増えてるらしいですよ」

 なんだそりゃ、と思った。

 しかしちょっと気になったので調べてみると、確かに結構話題の商品らしい。

 なんでも、それは見た目はごく普通の壁なのだが、もたれるとなんとも言えない安心感があって、一度手に入れると手放せなくなるほどの商品らしい。

 気にしないようにしつつも、もたれ壁のことが気になった私は、本部長と雑談をしている時にそれとなく聞いてみた。

「本部長はもたれ壁って知ってます?」

 軽い気持ちで聞いたのだが、本部長は突然真面目な顔になって私に言った。

「君……あれはね、実際、良いよ」

「え、使ってらっしゃるんですか?」

「あぁ」

 本部長が真面目な顔で答える。

 冗談を言うような人ではないので、私はとうとうもたれ壁のことが気になって仕方なくなった。

 妻に「壁を買いたい」と言うと案の定「どうしたの?」と心配された。

「僕の書斎に置くから。邪魔にはならないよ」

 そう妻に話をつけて、私はもたれ壁を注文した。

 次の週末に、もたれ壁は届いた。

 業者が玄関から壁を運び入れ、部屋に設置して帰って行く。

 ただでさえ狭い書斎なのに、新しく壁ができてさらに狭くなった。

 狭くなった書斎を見て内心後悔しはじめたのだが、まずは効能を試してみようと私は壁によりかかった。

「お、おぉ?」

 私は思わずそんな声を漏らした。

 壁にもたれかかった瞬間、えも言われぬ安心感に包まれた。

 母親が幼い子供にするように壁が私を包み込んでくれているような感覚。

 私は安心して背中を預け、足を伸ばして座り込んだ。

「あぁ……」

 思わずため息を漏らす。

 いつもピンッと張っていた心が解きほぐされていくような感覚だった。

 私はただの壁のはずのもたれ壁に、長い時間もたれかかっていた。

 もたれ壁にもたれるだけで私のストレスは大きく減っていった。

 壁にもたれて、独り言のように壁に仕事のことを話しているだけで私の心は癒された。

 そのおかげで仕事もうまく回るようになってきた。

 私は家に帰ると妻や子供がいるリビングを早々に立ち去って、書斎で壁にもたれた。

 家に居場所がないというわけではないが、私がいることでなんとなく家族の息が詰まっているような感覚があったので、家族の為にもいいのだろう、と思った。

 しかし、そんなある日のことだった。

 私が夕食もそこそこに書斎に引っ込み、いつものように壁にもたれかかって仕事の話をしていると、突然書斎のドアがノックされた。

「あなた、いい?」

 妻の声だった。

「あ、あぁ、いいよ」

 立ち上がって妻を迎える。

「どうした?」

「ん……? ううん、別に」

「そう……」

 妻がなんともなしにそこに立っている。

 一体どうしたのだろう?

「ね、それ。いい?」

 妻がもたれ壁を指差す。

「いいって?」

「私も、もたれてみていい?」

 そんなことを言う妻に、私は戸惑いつつもうなずきを返した。

 妻がまだエプロンをつけたままで壁にもたれて座る。

「あ……すごい。ほんとにいいね、これ」

「あぁ。そうだろ」

 私はそう言いながら自分も壁にもたれかかった。

 しばらく二人でそうしていたのだが、妻が突然「あのね」と話し始めた。

「何?」と聞くと「あなたじゃなくて、壁に話してるんです」と言う。

「あぁ、そうか。ごめん」

「……あのね、壁さん。最近、うちの主人がすぐにあなたのところに行っちゃうんです」

「え……」

「そりゃ、私は仕事のことはよく分かりません。あの人は、あまり喋らない人だから。それに多分、仕事のことは家族に話したくない人だから」

 妻が指を組み合わせて遊びながら続ける。

「だから、あなたが聞いてくれるのならばそれでいい。あなたに話すことであの人の気が休まるなら。でも……ちょっとだけ、寂しいんです」

 妻はそれだけ言うと、スッと立ち上がって部屋を出ようとした。

「お、おい……」

 私が呼び止めると妻がドアノブを持ったまま言った。

「……私じゃ頼りないの、知ってる。仕事のことも分かってあげられないかもしれない。でもこれだけは覚えておいて。私だって、あなたのことを支えたいと思ってる」

 妻はそう言うと部屋を出ていった。

 私は一人残った部屋でただ、ぼぉっと立っていた。

 それから私は、なんとなく家族がいるリビングに留まる時間が増やした。

 夕食を食べた後も、ぼんやりとテレビを眺める。

 そうしてみて分かったのだが、別に家族は私がいても息苦しさなんて感じていないようだった。

 もしかして息苦しいと思っていたのは私の方だったのかもしれない。

 私はやはり仕事の話を妻にすることはなかったが、その代わりテレビのことやその他のことで妻と話すようになった。

 いつの間にかほとんど書斎には行かなくなった。

「最近なんだか調子良さそうですね」

 帰り支度をしていたら部署の若手にそんなことを言われた。

「もしかして、壁、使っていらっしゃるんですか」

「いや、もう使っていないよ」

 実際、壁はこの前の週末に撤去してもらった。

「あんまり良くなかったですか」

「いいや。壁を取ったのがよかったんだよ」

 良く分からない、という顔をする若手に「お先に」と告げて会社をあとにする。

 そして私は、いくつか壁が少なくなった自宅へと急いだ。

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